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人生最大と言っても過言ではない分岐点は、高2の夏休み前に突如として現れた。
面識はあったけどこれまで露いささかも直接的な関わり合いを持たなかった、持ちたくもなかった隣のクラスの男子に、放課後の誰もいない教室で捕まったのがいけない。
委員会の仕事をこんなところでやるんじゃなかった。
自分の運の悪さに嘆く私に彼は言った。
「前々から気になってたんだ。愛生のことを思うと胸が締め付けられて、お前を手元に置いて独占し、たっぷりと可愛がってやりたい衝動に駆られる。世間一般ではこれを恋と呼ぶらしい。溺れるほどに愛してやる、だから俺と付き合え」
不良として有名な、この学校内で知らぬ者はいないと謳われる彼の口から出てきたまさかの愛の告白に、私はしばしの間、茫然自失する。
机に向かっていた私に話しかけたのは、てっきりお金をせびる為かと思ったのに……。
付き合えって、一体なんの冗談?
恐る恐る彼の表情を窺いつつ、ここはどう返すのが正解なのだろうと思考を巡らす。
本音はいち早くこの場から立ち去りたかった。
でもそんなことをして、無視しただのイチャモンをつけられてしまえば一巻の終わりだ。
出来ることなら彼の機嫌を損ねない無難な対処がいいが……彼に話しかけられた時点で、すでに私のスクールライフは終わりを告げていたのかもしれない。
「ちょっと待てってぇのー。やめてよ、野蛮人。愛生ちゃんが怯えちゃってるじゃん」
その時、第三者の声とともに私の後ろから伸びてきた腕に、私は割れ物かと言わんばかりに優しく抱きしめられた。
今度は何?
びっくりして慌てて振り返ろうとしたけど、目前にいた男が柳眉を逆立てた恐ろしい顔をするので、戦々恐々としてしまい、立ち竦むことしかできなかった。
目前の男はどうやら私を抱く男を睨んでいるようだが、奥底から、本当に果てしない深部から這いつくばって出てきたかの如く鋭い視線と孕む怒気に、私まで当てられてしまった。
震える私に気づいたのか、未だ抱きしめた体勢のままの男が、私の視界を軽く覆う。
まるで憩いの場を提供してくれるような彼にさえ、恐怖は湧けど決して安心できなかった。
何故なら、二人とも同じだと感じたからだ。
理由は分からない。
ただ、この二人は危険だと、第六感がけたたましく警鐘を鳴らす。
逃げなきゃ。
無意識にそう思った。
纏わりつく男の腕を掻い潜って、私は教室の扉へ一目散に駆ける。
「あっ」
男の驚く声が聞こえた。
正直、やったと思った。
後先考えての行動ではなかったが、息の詰まるこの場から逃げ出せれば、ひとまず安息できると。
しかし現実はそう甘くはなかった。
「待てよ」
もう一人の男、蘇芳色に染められた髪が印象的な彼に、私は簡単に捕まった。
己の鈍足をこうまで呪ったことはない。
掴まれた腕を引っ張られ、いとも容易くもといた場所とそう変わりないところへ舞い戻る。
ああ、どうして。
「愛生、逃げるなよ。今だけ逃げ出したって何の解決にもなんねえぞ。分かってんのか、お前は俺が選んだ女だ。俺の女なんだ。この先、お前に俺がいない人生など歩めるものか」
「は?勝手に愛生ちゃんをお前の所有物認定しないでくれる?見ろよ、顔面蒼白にして萎縮しちゃってんじゃん。愛生ちゃんはこれから俺の彼女になって俺と愛を育むんだから、お前邪魔なだけだよ」
私の代わりに反発してくれたのは肩まで伸ばされた金髪をハーフアップにした先輩だったが、彼が言ってることも批難すべき内容だ。
私はどちらの女でもなければ、なる予定もない。
彼らの主張はまるで私の意見を無視してる。
「ざけんじゃねえ。なら愛生に聞いてみてやるよ、俺とお前どちらを選ぶのか。なあ、どっちだ?」
「まあ聞くまでもないけど、確認のためにね。愛生ちゃん、もちろん俺を選んでくれるよね?」
一斉にこちらを向く精悍な顔。
急に話を振られてもうパニック状態だ。
二人とも、どうして私が自分を選ぶと言い切れるのだろう。
それまで仲が良かったわけでもないのに……。
これって何かの罰ゲーム?
金髪の先輩の方も、蘇芳色の男に引けをとらないほどに有名な生徒だ。
罰ゲームでなければなんだと言う。
格好良くて剛健な彼らが私なんかに告白をする理由……高が知れてる。
恐喝や暴行されなかっただけこれ幸いだけど、円滑に問題を解決するためにはどうしたらいいのか。
頭の悪い私にスムーズな打開策が浮かぶはずもなく、結局、少し逡巡した後にてい良く断ることにした。
「あ、あの。ごめんなさい、……間に合ってます」
なるたけ無難な答えを捻出し、私は深々と頭を下げる。
怖くて顔が見れない。
「「はあ!?」」
息の合った二人の声。
思わず肩が過敏に反応した。
やはり罰ゲームでも、私なんかに告白を断られたらプライドが傷付くのだろうか。
しまった。
じゃあ、選択を誤ったんだ。
「二人とも好きです」、これが正しい答え?
「間に合ってるって、どういうことだよ愛生!お前、他に男がいるのか!」
「愛生ちゃん、俺だけじゃ物足りなかったの!?浮気なんてやめてよ!」
焦っていた私に、二人がそれ以上に焦った表情で問い詰めてきた。
間に合ってるって言ったのは、そういう意味じゃないのに。
「違い、ます。間に合ってると言ったのは、その……今の生活で十分満足しているので、恋愛とかはちょっと……」
というか、浮気って?
私は今まで誰とも付き合ったことないから、そういう言い回しはおかしいような。
「ああ、なるほど。そういうことね。なんだ安心したー。愛生ちゃんに男なんていたら、俺そいつのこと殺しちゃうよ」
ゾクッと背筋が凍る発言をした先輩。
続いて蘇芳色の彼までもが、「殺すなんて生温い。愛生に近づく害虫は、生まれてきたことそのものを後悔するくらいに躾けてやらなきゃな」と。
言いようのない戦慄が体の芯を駆け巡った。
なんなの、この人たち……。
「ごめんなさい」
気づいたら謝罪の言葉が口から飛び出ていた。
「私、こういうの慣れてなくて……。からかうのはやめてください。お願いしま―――」
なけなしの勇気を振り絞って紡いだ台詞は、言い終えることはできなかった。
ガアァンッ!!
そんな、凄まじい音が室内に轟く。
誰かの机が蹴飛ばされた。
辺りに散乱した机の中身。
今にも強張りそうな体に鞭打って、机を蹴った彼……金髪の先輩を視界に映した。
笑ってた。
口元に弧を描いていたけど、瞳は暗澹としていて、まったく笑っていない。
阿修羅の笑みだ。
「愛生ちゃん、俺、鈍感で無感覚なきみも好きだけどさあ、これはないよね。こんなに真剣な俺の告白を無碍にするなんて。
“からかわないでください”?こっちの台詞だよ。真摯な告白には真摯な返事をするのが道理なんじゃないのかよ。……まあ、俺が言えた口じゃないけどねー」
怖い。
感覚的に、鶏のように首を縦に振り続けた。
逆らってはいけないと、防衛本能が叫ぶ。
「チッ。どっちが野蛮なんだよ」
「やだなあ、俺はこの期に及んで優柔不断な愛生ちゃんに、早く答えるようお願いしただけじゃん」
脅しと変わらない。
私と蘇芳色の男の内懐は、この時ばかりは一致したことだろう。
「まあいい、愛生。俺たちは本気だ。選べ、俺かこいつ。二択に一つだ、未選択は不可とする」
「愛生ちゃんはちゃんと考えられる頭があるんだから、じっくり悩むといいんじゃない?ま、どうせ俺を選ぶだろうけど」
「……テメェ、いちいちうぜえ」
蘇芳色の彼が金髪の先輩を厭わしそうに見遣り、次いで目を白黒させる私に視線を留めると、妙案が思い浮かんだとばかりに口元を歪ませた。
「愛生、お前は心優しいからな。こんなクソでも一応は先輩だ、断るのには良心が痛むんだろう。
ここは、お前に負担をかけないよう俺たちで決めることにする。いいな、御峠。お前と俺で、どちらが愛生により相応しいか腕比べだ。期間は夏休みいっぱい、異存は?」
「ないね。ようは潰し合いってことだろ。新田、お前とはそろそろ決着つけねーとって思ってたんだよねえ。まさかこんな形になるとは予想だにしなかったけど、時機が早まっただけだし何の問題もない」
目前で展開される話についていけなかった。
二人の話し合いはそれで終結を迎えたらしく、私が一人頭を抱えていた隙に颯爽と立ち去っていった。
同時に張り詰めた緊張も解け、へにゃりと床に崩れ落ちる私。
……嵐が過ぎ去ってくれたのはいいんだけど、これって、夏休み明けまで期間が延長されたに過ぎないってことだよね?
厄介な人たちに目をつけられたと、泣きそうになった。
常識的な、なおかつ純粋で臆病な女の子を主人公に据えたかったんです。
更新ペースは亀足だと思いますが、よろしくお願いします。