壊れていく世界(1)
空気、というものがある。
その場の雰囲気とでも言うべきか。目覚めた瞬間に、その空気が張り詰めていることに気付く。
急激に覚醒して、俺はその場で飛び起きる。
何だ、何があった?
手早く着替えているうちにも、廊下をばたばたと慌しく走る足音が聞こえる。それと、ちりんちりんと涼やかな音も。
何だ、あの音?
枕元に置いておいた鈴つきの鍵で錠を外すと、廊下に出て今度は外から錠をかける。ポケットに鍵を突っ込んでとりあえずダイニングに向かおうと小走りになると、ポケットの中で鈴が揺れて音が鳴る。
ああ、さっきの音、これか。
ダイニングの直前で、同じように小走りのハヤノシンと出会う。
「あっ、どうも。どっ、どうしたんですか?」
「ヴァン殿か」
温和な老人が、狼狽して目をぎょろぎょろと忙しなく動かしている。
その目には、疑いの色がある。
「何も、知らんのですか?」
「え?」
ちょうどその時に、ばたばたとネイツ、レイ、ハウザー、そしてリックが二階から降りてくる。
「駄目だ」
レイが鉛のような目をして言う。
「どこにもいない」
「あっ、ヴァン起きたんだ。これでまだ寝てるのはキリオちゃんとウォッチだけね」
緊迫した雰囲気にも関わらず、ネイツだけが平常運転だ。
「キリオは昨日、大分眠そうだったから、仕方ないだろ」
一応弁護しておいてやる。
「ウォッチも、あれで寝られる時にはいくらでも寝ておく男でしてな、敵意でも向けてやればすぐに跳ね起きると思いますがの」
「ボブは?」
その場におらず話にも出てこない男のことを思い出す。
「ボブ様なら、ダイニングでお茶を飲んでおられます。リリーナはそのお世話を」
その答えに俺は仰天する。
大物だな。俺にはとてもまねできない。手伝うだろ、普通。
「で、何があったんですか?」
俺の質問に、俺以外の全員が一瞬のうちに視線を交わし、しばらくの沈黙。
そして。
「ローズ様が消失しました」
リックが端的に説明する。
「なるほど」
驚きはするが、それを隠して冷静に返す。いや、返したつもりだが、少し指先が震えている。握りこんで隠す。
何が起きている?
ジャンゴとローズで、羅針盤と研究資料を持って逃げ出した?
「お前の考えていることは何となく分かるが」
レイが俺を見る。
「おそらく違う。リックが残っているからな」
「さて」
リックは肩をすくめる。
「私にそこまで価値があるとは思えませんが」
「あのローズの助手だ。研究者としては中々優秀だと聞いている。それにハウザー、お前もここにいるからな。さすがにリックとハウザーを切り捨てて逃げ出すとは思えない」
「そうかあ? ジャンゴは生き延びる為なら何だって捨てるし、ローズも別にそこらにこだわりはないだろ」
「あの女は、弟を見捨てない。初期衝動だからな」
瞬間、ハウザーの目線に殺気がこもる。
「レイさん、知ってたのかよ」
「当然だ。国内にいくらでも資料がある」
何のことだ?
「どうでもいいけど」
緊迫した雰囲気を潰すのは、やはりネイツだ。
「はやく二人を起こして、ダイニングでお茶でも飲んで落ち着きましょうよ」
「確かに、状況整理は重要ですなあ」
ハヤノシンの一言が決め手となって、ウォッチとキリオを起こすことになった。
二人は意外なくらいにあっさりと目覚め、共にちゃんと錠をかけてからダイニングに向かう。
先にお茶を飲みながらくつろいでいるボブを全員で恨めしげに見てやるが、何も気にする素振りをみせずリリーナにお茶請けの追加を頼んでいる。
こいつを気にしたら負けだ。
ということで、全員で席に付き、リリーナによってお茶が注がれていく。緊急事態ということで、今回はリリーナとリックも座ってもらう。
「朝、私は灰の処分を行おうと思いました」
リックの話が始まる。探索組は既に聞いた話らしいが、まだの俺達のために最初から話してくれるように頼んだのだ。
「処分室で燃やした灰です。毎朝捨てるのが日課なので、今朝も捨てようと思い、そこで出入り口に閂をかけていたことに気付きました」
単純だが、重く頑丈そうな、とてもちょっとした小細工や魔術じゃあどうにもなりそうにない、金属製の閂だ。
「いつも外に捨てに行ってますので、閂を外さなければなりません。一応、それには許可が必要だと考えました。そこでローズ様の部屋をノックしたのですが」
返事がなかったのです、とリックはお茶を一口飲む。
「ちょうど、そこでノックの音を聞いたレイ様が部屋を出てきて、私に事情を訊かれました。二人で、試しにということでドアを開くと、簡単に開きました。部屋の中にはローズ様はおらず、魔術錠と鍵はベッドに無造作に置かれていました」
「別に荒らされたりはしてなかったわけだな」
ウォッチの質問に、リックは頷いて、
「すぐにハウザー様を呼び、そしてレイ様がネイツ様を呼ばれました。ハヤノシン様も起きられました。騒ぎを聞きつけてリリーナとボブ様も。お二人をダイニングに置いて、ハヤノシン様には起きてきた人への説明を頼み、四人で研究所を全て調べてみましたが、ローズ様は見当たりません。かといって、あの閂がかけられている以上、あの出入り口から出たとも考えられません。外から閂はかけられませんので」
「共犯者がいるかもしれねえだろ、お前とかな。後で中からかけ直したんじゃねえのか」
ボブが憎々しげに言うが、
「共犯者、というよりその場合は単に協力者ですね。しかし、それに何の意味があるのですか?」
「あ?」
「意味です。閂をかけ直す意味」
あくまでもリックは冷静だ。
確かにそうだ。
ローズが逃げ出したいなら、閂を外して、そのまま逃げればいい。
いや。
「いやいや、意味はあるだろ。逃げ出したのを気付かれるまで、時間を稼げる」
ボブの反論。
そうだ。閂が外されていればその時点で緊急事態になる。
「そうなると、何時の段階でローズがいなくなったのかを確定するべきだな」
レイが呟くと、ネイツが顔をしかめる。
「ってことは今度はあたしが話さなきゃいけないわけね。面倒な」
どうしてネイツが?
と疑問に思ったところで、レイがネイツを探して俺の部屋をノックした時のことを思い出す。
あれに関係があるのか?
「実は、わたし、部屋に入ってすぐに、ローズに部屋を訪ねられたのよね」
え、とその話を全く知らない俺、キリオは顔を見合わせる。
妙なことにウォッチは平然としている。
「どうして私が、と思ったけど、ローズ曰く一番中立っぽい人を選んだみたい。まあ、夜中に何回か、全員の部屋を回っているかどうか確かめてって話だったわ。寝ている人を起こす必要もないから、ドアに鍵がかかっているかどうか確かめてくれればいいって」
「それをやったの? そんな面倒なの嫌がりそうなのに」
あまりにもストレートなキリオの感想。
「嫌だけどやったわよ。で、軽くドアを引っ張って全員のドアを見て回ったんだけど、ウォッチ以外は誰も気付かなかったわね」
「仕事柄、そういうのには敏感なんでな」
「で、一回目の見回りの時にウォッチが気付いたから、ちょうど積もる話もあったんでウォッチの部屋でちょっとしたお喋りをしてたわけ」
「そのタイミングで、俺がネイツの部屋を訪ねたわけだ」
それでいない、ってことになって俺の部屋を訪ねたわけか。ややこしいな。
しかし、ネイツとウォッチ、何か妙だな。ジャンゴが消失した時にも、確かネイツとウォッチが廊下で何か喋っていたという証言があったはずだ。
特に気が合いそうな二人でもないのに。
そう思うのは俺だけではないらしく、全員がいつの間にか不審の目でネイツとウォッチを窺っている。いや、正確にはハヤノシンだけが、静かな目でただ宙を見据えている。
「実は、わたし、っていうか、わたしの一族は元々はイスウ出身なのよ」
答えたのはネイツだ。
「え? じゃあ、エニも?」
「そうそう。もともと親子共々、炎術師として世界を回っている生き方してるから、そんなに国への帰属意識みたいなものは薄いけどね。で、ウォッチとは、昔なじみってやつ」
「なるほど」
幼馴染というやつか。
考えてみれば、ウォッチにも子どもの頃ってあるんだよな、想像できないけど。
「話を元に戻そうぜ。結局、あんた何回くらい部屋を見回ったんだ?」
ハウザーに促され、
「全部で三回ね。見回ったというか、鍵がかかっているか確かめたんだけど」
「はあん。で、毎回全員鍵かけてたか?」
「まあね。ウォッチ以外、誰も気付いてくれなかったけど」
「ちなみに、その時に閂はかかってたのか?」
ウォッチの質問に、うーんとネイツは唇に指を当てて、
「見てないわね、さすがに。薄暗いし」
「そうか。んで、最後にローズの部屋に鍵がかかっているのを確かめたのは?」
ハウザーが言う。
「三回目」
「そういうことじゃねえよ。その三回目は、いつかって訊いてるんだよ」
呆れるハウザー。
「知らないわよ、時間なんて。半分寝てたし」
「意味ねえだろ、それじゃ」
とうとうハウザーがさじを投げる。
「話を整理しよう。真夜中にネイツが確認した時から、今日の朝までの間で、ローズが消えた。今のところ、ローズが何処に消えたか考えられるのは、ひとつ、出入り口から外に出て共犯者が閂をかけた。他に、何がある?」
代わって、レイが舵を取る。
「処分室で灰になってんじゃねえのか?」
さらりとボブが凄まじい説を唱えるが、弟であるハウザーすらそれに反論しなかった。ただ、目を尖らせて黙っている。
おそらく、誰もが、心のどこかで思い浮かべていた選択肢だからだろう。俺だって、ジャンゴの消失について、完全に灰にしたんじゃないかと一度は想像していた。
「なるほど、二つ目は灰になっている、か。それじゃあ、三つ目は?」
「あのー」
リリーナが手を挙げる。
「屋上は調べたの?」
「もちろんだ」
「ちゃんと、下をしっかり見回しました?」
「何?」
レイがぴくりと瞼を震わせる。
俺にも、すぐにリリーナが何を言おうとしているのか分かる。
「屋上から、落ちたということか?」
猛烈な速さで何かを考えているのか、レイは自分のこめかみをとんとんと指で叩き出す。
「さっさと閂外して外を確認しようぜ。ああ、ついでに隣の処置棟もな」
既にハウザーは立ち上がっている。
特に反対する理由もない。
「あの、私、ちょっと朝食とってからにしたいんだけど」
いや、キリオが文句を言っているが、無視だ無視。
重い閂を俺とリックの二人がかりでさっさと外す。
ドアを開け放ち、すぐに全員で研究所の周りを一周する。
だが。
「何もないわね」
ネイツの一言が全てを表している。
「何もない、ことはないぞ。草がある。あとところどころ灰も」
ボブが意味のない反論するが、
「灰は、毎日私が捨てている場所から、風で飛ばされているんでしょう。最近は風が強いですから」
リックの説明が終わらないうちに、すぐさま強風が吹いて、灰の粒が俺の目に入って思わず目を強くつむる。
確かに風が強いな、今日は特に。
「ついでに処置棟の方も見ようぜ。鍵は持ってるんだよな?」
同じく風に顔をしかめながらのハウザーの提案に、
「そうしましょう。皆さんの客室以外の研究所、処置棟に関する鍵は、私とローズ様がそれぞれひとつずつ持っています」
じゃらり、とリックが鍵束を取り出す。
「さっさと終わらせようぜ。もう疲れた。僕は朝が弱いんだ」
文句を言うボブを引き連れて、俺達は全員でぞろぞろと処置棟の扉の前に行く。
「あまりここには入りたくないんですがのお」
「俺もそうだよ」
文句を言うハヤノシンとハウザー。
それ言うなら、全員そうだろ。
「結構役得よね、もう一度ここに入れるなんて」
前言撤回。横で目を輝かせているキリオは除く。
「ああ、リリーナ、研究所に戻って……」
「リック、この状態で一人でリリーナを戻らせるつもりか?」
レイに指摘され、固まった一瞬のうちに、
「じゃあ、わしが付き添いましょう。のお、リリーナ殿、一緒に研究所に戻りましょう」
「そうなると俺も戻るしかないな」
と、これ幸いとこの場を離脱しようとするハヤノシンと、それについていくウォッチ。
最後までリリーナは渋っていたが、結局、早く帰ってお茶でも飲んでおきたいハヤノシンに引きずられるようにして、ウォッチと一緒に研究所の方に戻っていく。
それを見届けてから、リックはゆっくりと扉に鍵を近づける。
「随分過保護だな」
馬鹿にするようなボブの一言に、
「殻が壊れると、取り返しが付きませんので」
静かにリックはそう返す。
どういう意味だ?
かちり、と鍵の開く音。
さて、また死臭が襲ってくるぞ。
俺は覚悟する。
そして、扉が開かれる。
死臭はしなかった。いや、それよりもきつい臭いで上書きされていた。
誰も、何も言わない。誰もが凍り付いている。
血の臭いだ。血の、臭い。何度かかいだことのある、臭いだ。
やがて扉が大きく開かれ、日の光で照らされて内部の様子が露になる。
部屋は荒らされていた。棚は倒され、壊されていた。薬剤の入った瓶の多くは割れ、中身が散乱している。器具もいくつか破損して、そこらじゅうに転がっている。
だがそれよりも何よりも、血だ。
血が、部屋中に、飛び散って。
「モーラ」
誰の声だ?
俺だ。
俺の声だ。俺が、呆然と呟いている。無意識のうちに。
そう、モーラだ。もしくはキジーツ。
彼女の死体が、ずたずたにされている。死体が、ずたずたに。おそらく、部屋に撒かれている血はその死体からのものだ。
そして、部屋の中心には、ローズ。
あの血染めの白衣を着たローズが、仰向けに倒れて、能面のような顔のまま絶命していた。
胸には、深く金属製の矢が突き刺されていた。
「これは、参ったな」
姉の死を前にして、ハウザーがぽつりと言う。




