プロローグ(2)
二十代後半に差し掛かる、ちょうど俺の誕生日の話だ。
夕暮れ、いやもう夜になろうとする中、俺は小雨の中を、薄汚く狭い路地をふらふらと歩いている。
「痛てぇ……」
呻きながら、腹を押さえる。
痛い。そりゃあ痛い。
脇腹を刺されたんだから、当たり前だ。
深く刺されて、そして抜かれたその傷口からは、さっきから押さえても血がたらたらと流れ続けている。
白いシャツが赤黒くそまっていて、その色は死を思わせる。
死ぬのか、俺?
「くそ……」
こんな暗い路地裏じゃあ、誰も見つけてくれない。
全身の力を使って、人通りのある大通りへ出ようと壁にすがりながら歩くが、足がもつれてそのまま倒れこんだ。
「ぐえっ」
倒れて泥に塗れた俺から、雨が容赦なく体温を奪っていく。
「く、そ……」
呻く。
体を起こそうとして、手足が棒のように動かないことに気づく。
どうしてこんなことになってしまったんだ。
いや、理由は決まりきっている。
俺が、下手をうったからだ。
あのチンピラ、ただの粋がっているチンピラだと思ったら、まさかヤク中だったなんて。
取引現場を目撃した挙句、テンパった標的に刺されるなんて、笑い話にもならない。
マーロウなら、フィリップ・マーロウならこんなことにはなっていないだろう。あるいはコロンボでも。
探偵なんて、向いてなかったってことだな。
俺は薄々気づいていたことを、はっきりと自覚する。
寒い。体が寒くてたまらない。まるで自分の体じゃないみたいだ。
子どもの頃から、本が好きだった。
特にミステリ。ホームズやルパン、エラリーやポオ、江戸川乱歩に……ともかく、片っ端から読み漁った。
寒い。自分の体じゃないみたいだ。
「くく」
死が目前だというのに、思わず笑ってしまう。泥と雨水が口に入る。
本当に、典型的なミステリおたくだった。
ノックスの十戒やヴァン・ダインの二十則を興味のない友人に自慢気に語り、大学の卒業論文は「後期クイーン問題について」だった。
実録ものの犯罪小説や警察小説を読み、進路を警察に向けるのも自然な流れだった。
そして、警察官になったのはいいものの、理想と現実の齟齬に耐え切れず、逃げてしまうのも。
すぐに逃げてしまった。
厳しい訓練、人間関係、雑多な基本業務。どれも、覚悟していたとはいえ、ミステリ小説には書かれていない、そして関係のないそれらを前にして、俺は絶望してしまった。
それを耐えきった後に、難事件やそれを解決するための頭をフル回転させる捜査会議、論理と直感の両方を使って行う捜査、そんなものが存在しないのも絶望に拍車をかけた。
今の俺は、本当の俺じゃない。仮の俺だ。
俺の本当の場所は、こんなところじゃない。
そんな、言い訳みたいなことを思って、警察を辞めることを考え、ずるずると引き伸ばした挙句、結局二年で辞めてしまった。
そして、探偵。
探偵社に入社し、今度こそ、自分の能力が発揮できると思った。
もちろん、浮気調査なんかが主だ。分かっていた。小説みたいに探偵が殺人事件を解決するなんてことがないくらい。それでも、ここでなら俺は本当の俺になれる。
そんなことを思っていた。
結果が、これだ。
雨に濡れながら、俺は自嘲の笑みをこぼす。
この有様だ。
褒められたのは、せいぜいが報告書の書き方くらい。後は全部駄目。尾行も、依頼人とのコミュニケーションも、咄嗟の機転も、何もかもが。
「元警察ってんで期待して損したな。半年前に入ったバイトの方が使えるぞ」
つい先週、所長にため息混じりに吐かれた言葉だ。
俺は返す言葉がなかった。その通りだったからだ。
センスがない。要領が悪い。おどおどしている。
本を読んで、自分でイメージしていた姿と現実の自分には、努力ではどうしようもないと思えるような距離があった。
努力ではどうにもできないものを抱えてしまった時、人はどうすればいいのか。
「耐えるしかない」
マーロウならそう言うだろう。
だから俺もそうした。
耐えて、下っ端の探偵として仕事をこなし続けた。
その結果が、これか。
笑い話だ。
本当の俺なんて、俺の本当の能力が発揮できる場所なんて、なかった。
なあ、マーロウ。
俺にはハードボイルドは無理だ。
努力したら報われたい。目標は達成したい。いくらでも力が、暴力体力財力知力権力が欲しい。
何よりも、才能が。
偽らざる、俺の、その情けない思いを最後に、意識が薄れていく。
死ぬのか、畜生。
視界が狭くなっていく。雨音も遠くなっていく。
両親のことを思い出そうとして、それよりも読みかけのミステリー小説のことを思い出してしまって、俺は死にながら嗤ってしまう。
そうして、俺は死ぬ。