ホテル1
見たことのない天井。暖かく心地よい。また意識が沈んでいく。
「……ああっ!」
だが意識は急激に再浮上する。自分がどういう状態なのか我に返ったからだ。
厳しい寒さで体調を崩して、よりにもよって事件捜査中に気絶してしまった。どこだろう、ここ? ホテルか。ホテルの自室。誰かに……ああ、アオイか。アオイに連れてきてもらったんだ。ぼんやりとだが記憶に残っている。
体を起こし、頭を振る。気分は悪くない。
長時間の馬車での移動、気候の急激な変化、そして殺人事件の捜査というのが重なって一時的に体が不調だっただけなのだろう。
「あーあ、やっちゃった」
それにしても捜査中にやってしまうとは失態だ。さっさと捜査を再開しなければ、と思うがまず何をしていいのか分からない。多分、アオイに連絡を取ればいいのだろうが、どうやって? ホテルのフロントにでも話をすればいいのだろうか? 窓の外を見て朝なのを確認する。一夜明けている。
とにかく動かないと、とベッドから出ようとしたところで、サイドテーブルに置かれた薄い本が目に入る。何も書かれていない無地の表紙を持つ、質素な印象の本だ。何これ?
記憶がフラッシュバックする。そうだ、ギンジョ―が歪杯について――歪杯の会について知りたければとりあえずこれでも読め、と言って渡してくれたものだ。これは、経典か。
待っていたらアオイが訪ねてくるかもしれない。とりあえず、この経典を先に読んでおくか。
ちょっと喉が渇いた。見れば、テーブルには中が入っている水差しがある。コップもある。水を注いで飲み干す。ぬるい。ベッドを出ると室内でも少し寒いが、それが残っていた眠気を吹き飛ばす。多少頭がしゃきっとしたところで、改めてその経典に手を伸ばす。とりあえず、最初から読んでいくことにしよう。
読んでみれば、それは経典ではなかった。そんなものではなく、いわば『歪杯の会』という団体の紹介のための冊子だ。これまでの会の歴史がざっと説明されている。
歪杯。それは元々、ある小さな村に古くから伝わっているご神体だったそうだ。元々はその村の民間信仰での儀式に使われていた古い杯だったという。その杯が多少歪んでいるから、そのまま歪杯と呼ばれていた。村の守り神であり、水不足の時にはその杯から無限に水が湧き出たという伝説もある。時には神託として村人に語り掛けたことすらあるという。
その杯を守る役割として、村の女性から巫女が選ばれていた。そして、それはその杯が失われた後も続いた。そう、失われた。歴史のどこかで、その杯は失わたのだという。それでも、教義も経典も何もなく、宗教というよりただの習慣として、巫女は十数年ごとに選ばれ続けていたという。考えてみれば滑稽なことだ。守るべきそれがないのに、守り人だけが選ばれ続けるとは。
そして、村の少女、ソラが巫女として選ばれた。だが、これまでの巫女とソラは違った。彼女は、失われた歪杯の声が聞こえると言った。普通ならば一笑に付されるであろうその主張だが、少女はずば抜けた魔術の才能を持っていた。そう、まるで神の寵愛を受けているかのように。
やがてソラを歪杯の声を聴くものとして信仰する者たちが集まり、組織され、失われた歪杯の再生とそれによる人々の救済を教義とする宗教団体『歪杯の会』ができあがる。
ソラの魔術師としての名声が大きくなるにつれて、歪杯の会もまた大きくなっていく。村から地方の規模へ、そして国外からの入信者も出るほどに。
だが、その趨勢もかつてナムト国で開かれた『魔術大会』をきっかけに失われた。その大会で優勝できなかったことから、一時的に会の勢いは衰える。
再び『歪杯の会』が躍進したのは数年前。小規模な教団となった会が、ソラの言葉に従って本部をあの事件現場、元貴族の別荘だった屋敷に移転させてからだった。ソラは「杯の呼ぶ声が聞こえる」と言い、それに従って信徒は本部の地下を掘り進めた。そして、地下から――本当に杯を発見したのだ。そして、それ以降、その歪杯のお告げにより、ソラはいくつもの奇跡を起こす。いわゆる千里眼だ。未来予知や透視といった奇跡を起こし、それにより再び急激に団体は規模を拡大しつつある。
僕はその本を閉じて、
「ふうん」
と呟く。
大体話としては分かった。ここに書いてあるのがどこまで本当なのかどうかは別として、だ。
つまりその歪杯があのトンネルの奥に、土に埋まったままで存在しているということか。そして、だからこそ信徒にとってあの場所は聖域。そこの、よりにもよって歪杯のすぐ横にあの妙なナイフもどきなんぞを置くはずがない、という話か。だから信徒が犯人ではない、か? 正直、あまり信用できない。どれほどの信仰心を持っているのかなど、外から判断のしようがない。
ノックの音。
「はい」
応えると、アオイがおずおず、といった様子で顔だけ部屋に入ってくる。
「おっ、元気そうっすね」
「ああ、アオイさん、すいません、ご迷惑かけてしまって」
「いやいやいや」
安心した顔をして、ようやくちゃんと入室してくる。
「この寒さっすからね、仕方ないっすよ」
「もしも問題なかったら、また捜査に協力させてほしいんですけど」
「もちろんもちろん。また、『歪杯の会』の本部に行きます?」
「いや」
考えを整理するため、頭をとんとんと指でノックしながら言う。
「確か……裏口がうんぬんかんぬん、みたいなこと、あの人たち言ってませんでしたっけ? そっちの話を先に調べてみたいんですけど」
倒れたばかりだから、正直なところ今から即座に会いに行くのが少々気まずいというのもある。他の調査を進めておいて、多少なりとも武器を持ってから臨みたい。
「ああ、あの話っすね。そうそう、あそこには裏口があるんすよ。けど、一応うちらでも調べましたけど、あそこを通るのは結構きついから、多分正面から入ったんだと思うんすけどねえ」
「そんなに、通りにくい道なんですか?」
「無茶苦茶通りにくいっすね。道が崩れてるんすよ。しかも、仮に通ったとしても……裏口の周辺は廃墟とか山とかで、さっき言ったように道自体が崩れてることもあって、あそこの裏口を通ったところで、その道から繋がってる場所がないんすよ」
「え、マジで? じゃあ、裏口から出入りのしようがないじゃないですか」
いや、出入りはできるが、本当に出入りできるだけで、どこにも行けないということか。
「あ、違う。一応一か所、繋がっていると言えば繋がっているところがあるっすね」
「おお、どこです?」
ならやっぱり、一応調べなければならないか。ひょっとしたら被害者か犯人はそのルートで侵入したのかもしれないし。そう意気込むが、
「このホテルの地下っすよ」
あまりにも予想外のその答えに一瞬思考停止してしまう。
このホテル?




