プロローグ
お待たせしました。
過去には、未来と同程度の価値しかない。
――P・アルコウ
登場人物紹介
ヴァン・ホームズ:元探偵、元大会シャーク代表
ココア:記者
オーキ・ダムド:ナムト魔術局局長
ソラ:元イスウ大会代表、新興宗教「歪杯の会」教祖
ギンジョー:元ソラの護衛、「歪杯の会」最高幹部
ハヅキ・シロ:元ソラの侍女、「歪杯の会」婦人部部長
ホージョウ:元ソラのスポンサー、ホテル「ガレージ」支配人
イワン・ディー:元大会ペース代表、ペース国家認定魔術師
ビンチョル:元イワンのスポンサー、金貸し
ケイブ:ビンチョルの上司、何でも屋
ショウトウ:元大会係員、指名手配犯
ウーヘイ:大会運営責任者、ナムト所属探偵
転がった宝石に、ヴァンは目を疑う。
突如として自分の前を転がり横切ったそれは、金色に輝く球に近い宝石。ほとんど透き通っている。
宝石には詳しくないヴァンだが、それが数日前に見たばかりのものだとすれば話は別だ。あれは、よくできた偽物でなければ、「黄金の瞳」だ。盗み出されたはずのそれが、今目の前に転がっている。
どうして? ナムト国技館で失われたそれが、どうしてホテルの自分の部屋に転がっている? そう、ホテルの部屋で、転がり、目の前を横切っている。おそらく簡単な仕掛け。自分が部屋に入ると、つっかえが取れて宝石が転がるようにしてあった。何のために? 部屋に入った瞬間、自分が宝石に気がつくように、だろう。だが、それはどうして?
一瞬のうちに、脳裏に様々な思考が流れる。それは止まることはない。
そんな仕掛けをしなくても、ベッドの上、中央にでも置いていれば絶対に気が付くはずだ。そうではなくて、わざわざそんな仕掛けをした理由はタイミングしか考えられない。部屋を開けたその瞬間に、確実に気付くように。どうして? 気付いたら、自分はどうする? 当然、気を取られる。あまりにも訳が分からない状況に混乱して、推理思考する。そう、今みたいに。それが、目的、だったとしたら。
思考がそこまで辿り着くまで部屋のドアを開けて一秒足らず。だが、その時は既に。
「欲しかった『黄金の瞳』はこれじゃあない」
背後から声。しわがれた、明らかに変えてある声だ。年齢どころか性別すら分からない声。完全に隙をつかれたヴァンは咄嗟に身構え振り返ろうとするが、それよりも先にひやりとした手が後ろからヴァンの首に触れ、魔術で強化されているのであろう指が、鉄杭のように撃ち込まれる。
「ぐっ」
激痛と共に体が強張り、ヴァンは身動きができなくなる。ツボか何かを突き刺されているらしい、とかろうじて働く頭で判断する。
ぐるり、と強制的に向き直らされたヴァンは、そこでようやく自分の首を掴んでいる者の姿を見る。ホテルの廊下、ヴァンの部屋の入口の前に立っているのは全身をローブで覆った人物だ。手の先から顔まで、ほとんど全てを布で覆っていて何も分からない。
「怪盗セイバーが、『黄金の瞳』をいただく」
性別不明の声と同時に、首を掴んでいない方の右手が、するりとヴァンの顔、いや目に近づく。
「お前は――」
何とか会話を成立させて隙をつくろうとするヴァンだが、その右手、指は一切止まることなくヴァンの左目眼窩に突き刺さる。
声にならない絶叫をあげてヴァンは、
「――ああ」
その絶叫で目を覚まし、自分が夢を見ていたことを知る。
自分がいるのは、あの目を奪われたナムトのホテルではなく自室のベッドの上であり、時間は深夜ではなく早朝。そして。
ヴァンは窓のカーテンを引く。窓の外、白く染まりつつある自分の領土の野原を無感動に眺める。
季節も、あれがあった夏ではなく、冬だ。
「久しぶりだな、あの夢も」
呟いて、深呼吸しているとようやく落ち着いてくる。意識もはっきりと覚醒する。その途端、さっきの悪夢のせいで自分の体が汗にまみれていることが気になってくる。気温が低いせいで、その汗が冷えて気分が悪い。
湯浴びでもしようと、部屋を出たところで、
「おっ、いた」
と主人に対するものとは思えない声をかけてくるメイドとばったりと会う。
「珍しい、いつも昼過ぎくらいまで惰眠をむさぼってるのに」
「やかましいよ、まったく……何か用?」
「ああ、そうそう、これ、ご主人に」
とメイドは封筒を渡してくる。
「なにこれ? 手紙とかは、俺じゃあなくて全部キリオが読んで判断してるじゃん」
ホームズ家を仕切っているのは、実質キリオなのだ。ヴァンが何かをすることはない。
「いや、そうなんですけど、ほら、最近は新入りと一緒に彫刻にはまっててそのあたり疎かになってるから……」
「そういう冗談はいいよ。あいつはやるべきことはきっちりやってから趣味をするタイプだ」
「さっすが愛妻家」
「さっさと話を進めろよ、本当に。俺、風呂行きたいんだけど」
「じゃあ真面目に話しますけど、一度奥様が見て判断された上で、これをご主人にってことで」
そう言われてよく観察すると、その何の変哲もない封筒には、なるほど、非常に丁寧ではあるが一度開けた痕跡が確かにある。
「じゃあ、俺宛てってことだ。それも、俺が読むべき内容だ、と。キリオのお墨付きで」
「そういうこと。じゃあ、確かに渡したんで。さあて、それじゃあ出かけないと」
「あ、今日は外出するのか」
「ええ。久しぶりに兄さんの面会なんで」
そう言ってメイドは去っていく。
軽やかな足取りの後ろ姿を眺めながら、ため息を一つ吐き、ヴァンは浴室へと歩きながら封筒を眺める。はてさて。送り主を見て眉を顰める。イースター。あの探偵士だ。少し前の事件で知り合った探偵士だが、別に特に親しいわけでもない。なのに、どうしてあいつが手紙を? ありうるとしたら、あの事件に関わっており、そしてヴァン自身も関わりのある怪盗、セイバーについて何か分かったということだろうか。果たして。
期待半分、不安半分でヴァンは歩いたまま封筒を開ける。味もそっけもない便箋が四つ折りになって入っている。それを取り出し、開き、最初の数行を読んだところで、
「――さっきの夢は、虫の知らせってやつか」
足が止まる。無意識のうちに、左目の眼帯を片手で押さえる。
「……やれやれ、こんな寒いのに」
右目をぎらぎらと輝かせつつ、ヴァンは舌打ちを一つ。
「どうやら、イスウに行かなきゃいけなくなったな」
さっきまでとはまるで違う力強い足取りで、ヴァンは再び歩き出す。