調査2
僕、ヴァン、エジソン、それからアオ。そのメンバーで調査に出かけることになる。パーティールームにはティア・メアリ母娘が二人きりで残ることになりそこに不安を覚えるが、何故かこのメンバー分けをヴァンは喜んでいるかのような素振りさえ見せて調査に出発した。
調査と言っても、まずやることは決まっている。
薄暗い廊下、その片隅にそっと置かれるようにして横たわっているパパゲアの遺体だ。近づくにつれて僕なんかは足が震えて濡れた床に滑って転びそうになるが、他の三人は少なくとも表面上は動揺を見せることなく、すたすたと死体に近づいていく。
「……とはいっても、ずっと水の中にあった。いくらエジソンさんに医術の心得があったとしても、そんなに詳しいことは分からない気がするけど」
ぼやきながらヴァンは死体の傍らにしゃがむ。
「そうですな。わたくしとしても、死亡推定時刻などを細かく割り出すことはできません。先程いったように、この紐で体を縛り付けてこのポーズにしたのが死後であるということ、頭のおそらくは鈍器による一撃が致命傷だった、ということくらいでしょうか」
ヴァンの隣にエジソンがしゃがみ込み答える。
「――おや、背中が」
手早く死体をチェックしていたエジソンは眉を顰める。
「どうかした?」
「いえ、背中にも傷が――傷では、ないのか? 妙ですな、皮膚に何らかのダメージがある? あまり、みたことがない状態です」
「……ひょっとすると、地面をひきずられた時のものじゃあないですかね?」
思い付きを口にすると、意外にもヴァンが頷く。
「そのあたりだろうね……アオは、どう思う?」
「どうも思わない。専門外です。そもそも湖底にある館で水に浮いている死体なんておそらくは史上初です。妙な痕跡があってもおかしくないのでは?」
「まあねえ……死体を探って分かるのはこれくらいか……ちょっと、向こう行ってみるか」
「えっ」
ヴァンは簡単にそう言って、足を水に浸からせながら、廊下を進んでいく。硬直してしまった僕を後目に、エジソンとアオもその後に続く。
「ええ……」
さすがにその後に続くのをためらう。ほんの少しの間躊躇するうちに、廊下が薄暗いこともあってすぐに彼らの姿が見えなくなる。彼らが水をかき分けているのであろう、ぴちゃぴちゃという水音だけ。
僕は、パパゲアの死体と二人きり――正確に言うと一人きりで残された。
水音もだんだんと小さくなって離れていく。ぴちゃぴちゃという、常にかすかにしている水音と混じりヴァンたちのものなのかそうでないのか区別がつかなくなってくる。
「……」
不意に心細くなってくる。目を向けないように意識すればするほど、水を吸って膨れた、パパゲアの死体が、その目を見開いた形相が目に飛び込んでくる。頭を振る。
冷静に考えれば、すぐそこの扉を開ければパーティールームで、その向こうにはメアリやティアがいる。客室の方にはクロードやライカ、ディーコンがいる。そのはずだ。
だが、いつしかこの館で自分が一人きり、死体の傍にいるような気分になってくる。水音も、その孤独を強調する役目しかない。
カルコサ。蘇る死者。どうしても目がパパゲアの死体へと向く。
白濁した目が、ぎょろりと突如として動く予感がする。ぽっかりと開いた口から呪詛が流れ出てくるのではないかという妄想が離れない。
頭の中では、不自然に曲がった身体を無理矢理に動かしながら、パパゲアが立ち上がっている。ぎこちなく濡れた体を動かしながら、一歩一歩、湿った足音をたてながら近づいてくる。
もちろん、妄想だ。現実のパパゲアの死体はぴくりとも動かない。
だが頭の中のパパゲアは止まらない。
ぴちゃり、ぴちゃり。
足音が近づく。
ぴちゃり、と。
首筋の冷たさに悲鳴も出せずそのまま床からわずかに飛び上がる。水。雫だ。水滴が上から落ちてきただけだ。そう理解したのは硬直したまま着地し、濡れた床に足を滑らせた瞬間だ。まずい。目を閉じて体を丸める。
躓くようにして、何か冷たく、それでいて柔らかいものに倒れ込む。固い床に激突する覚悟をしていたので、その感触に安堵するよりも驚き、何に倒れ込んだのかと目を開けて。
目前に、パパゲアの死顔がある。
びいぃつ、と妙な音がする。自分の喉がたてた音だ。もちろん、意思とは無関係に。そして、四肢をばらばらに動かし、床を滑るようにして死体から距離を取るのも、意思とは無関係だ。何も考えられない。
「あっ、あっ、あっ、あっ」
息と声の中間のようなものを吐き出しながら死体から遠ざかり、立ち上がろうとして失敗してまた転び、床を滑って転んで移動し続ける。頭は真っ白だ。それでも、何とか片膝を立てる。
妄想のパパゲア、さっき目前で見たあの死顔をしたパパゲアは立ち上がり、もう僕のすぐ後ろまで迫っている。復讐のために。だったら僕じゃあなくて犯人を襲え。そう言いたいけれど喉は張り付いたようになっていて声は出ない。違う。そもそもパパゲアが動いているのは妄想だ。
本当に? 今、この瞬間、僕はパパゲアに背を向けている恰好だ。見えない。ひょっとしたら、本当にパパゲアが立ち上がり、あの死顔で、僕へと近づいて。
ぴちゃり。そう、こんな、湿った足音。幻聴? いや、待て、これは、本物じゃあないのか?
ぴちゃり。
そうか、そうだ、さっきもそうだった。雫だ。ただの雫。
だが頭の中から、パパゲアの死体がすぐ後ろに立っている映像が離れてくれない。
ぴちゃり。
落ち着け、後ろを振り向けばいいんだ。そうしたら、動いていないパパゲアの死体がそこにある。
ぴちゃり。
雫だ。雫。さあ、それじゃあ、振り向くぞ。そう、すぐに、今だ。今。もう振り向くぞ。
そこで、肩に、手が置かれる。後ろから。水滴などではない。明らかに人の手。それも、濡れて冷たい、明らかに既に命のない――
自分の喉から出たとは思えないほどの絶叫をあげて、、気絶しかけた体を必死で動かし、後ろに回し蹴りを放つ。
「何度も謝ってるじゃないですか」
「いくら謝られても許さない。俺みたいなか弱い人間に、思い切り蹴りを入れるなんて。鬼畜の所業だ」
蹴りが思い切り入ってしまったみぞおちをさすりながら、恨めし気にヴァンが睨んでくる。
「で、でもいきなり後ろから手を置かれたら、状況も状況ですし」
「お前が一人でばたばた暴れてるから、聞き逃しただけだ。こっちは何度も声をかけた」
「うう、い、いやあ、すいません……」
もう反論する道がなくなり、流石に悪いことをした、と反省する。
「水の中を必死で調査していたから濡れて冷え切った俺の手を、よりにもよって死人の手だと? ただでさえ死人みたいに顔色悪いって言われてて気にしてるのに」
「まあまあ、ヴァン様。ココア様も反省してらっしゃいますし」
間に入るエジソンに、ヴァンは首を振る。
「いいや、言わせてくださいよ。こんな枯れ木みたいな男に回し蹴りを叩きこんできたんですよ?」
「自分で枯れ木って言ってて情けなくないんですか?」
「おい、全然反省してないだろ!」
「謝ってほしいのはこっちよ、まったく」
と、エジソンに足首の手当をしてもらい終わったライカが口を尖らせる。捻ったらしいので、エジソンが持ち歩いていた包帯を巻いただけだが。
「いやあ、ライカは勝手に滑って転んで足首捻っただけだろ」
ヴァンは冷たい。
「なんて言い草。あたしたちの部屋のすぐ近くで、あんな声量で悲鳴をあげられたら部屋の中にいても聞こえるわよ。何があったのかと慌てて飛び出したら……まったく」
そこで壮大に滑って転んだというわけだ。部屋を飛び出した瞬間、そのまま濡れた床の上をぐるぐる回りながら壁に激突するライカの様は驚くべきものだった。
「いやあ、すいません、僕が大騒ぎしたせいで」
だが、まだ心臓がおかしい。それくらい怖かった。
「いえいえ。まあ、お転婆すぎる彼女にはいい薬ですよ」
疲れた顔で、ディーコンがライカに肩を貸す。彼はライカが壁に激突したすぐ後に、同じように慌てて出てきて同じように滑って転んだ。だが、彼の方が勢いが弱かったおかげでライカのように負傷はしなかったのだ。
防音の部屋にいた二人が飛び出てくるほどの悲鳴をあげてしまったらしい。確認したところ、わずかではあったが確かに扉自体が震えているほどだったそうだ。多分、人生史上最大の悲鳴を上げてしまったのだろう。限界を超えたせいだろう、喉が無性に痛い。声帯がおかしくなっている。
「いたたた……それじゃ、宣言通りあたしたちは部屋にこもるわよ」
そう言って夫婦は肩を組んだままで廊下から部屋に戻っていく。ライカの方はひょこひょことした足取りで、捻ってしまった左足を庇っている。あんなことを宣言して誰も信じないと主張した割に、悲鳴を聞いたら飛び出してくるあたり、どこまでもお人よしというかなんというか。
「――しかし冷えました。目的の食料の追加も手に入れましたし、早くパーティールームに戻りましょう。体も拭きたい」
夫婦が部屋に入るのを見送ってから、アオが話を変える。気を遣っているのかもしれない。
「あの母娘が大げんかしてたりして」
僕が言うと、エジソンが渋い顔をする。
「そのようなことが起こらないように、祈りたいものです。あのお二人だけにしたのは失敗だったでしょうか?」
「逆だよ。あの二人だから、俺は残す気になった」
ようやくダメージから立ち直ってきたのか、ヴァンはみぞおちから手を離す。
「あの不仲はさすがに演技の可能性は少ない。つまり、あの二人が共犯っていう線はさすがにないでしょ。ああ、エジソンさん、怒らないでくださいよ。誰が犯人なのかも分からないんだから、そういうことも疑わないと……ともかく、あの二人なら二人きりになった途端によからぬことをしたり、打ち合わせをする危険性も少ないと思ってね」
そういう意味だったのか。
「それと引き換えに、殺し合い寸前の大げんかしているかも」
アオが冗談めかして言うと、
「いやあ、さすがにこの状況下ではそんな元気もないと思うけどなあ。ねえ、エジソンさん」
話を振られたエジソンは多少困った顔をしつつも、
「お二人はあれで、理知的な方ですから。そんなことにはなっていないかと思います……冷戦の様相を呈してはおりますが、直接的には」
この執事、なかなか言うな。
「それで、ヴァンさんたちは何か分かったんですか?」
「それも含めて、パーティールームで話すよ。皆に報告した方が楽だ。クロードとかライカ。ディーコン夫妻は……まあ、次の食事の時にでもいいか。とにかく戻ろう。あの二人がつかみ合いとかする前に」
軽口を叩きながらヴァンは歩き出す。すぐにパーティールームへの扉の前に辿り着く。
「まったく、奥様とお嬢様をそんな風に言うのはやめてください。そんなお二人ではありません」
苦言を呈しながらエジソンが続き、僕とアオもそれに続く。
だが、ふと思う。
恥ずかしながら僕は部屋の中にいるライカ・ディーコンの夫妻に聞こえるほどの悲鳴を上げたわけだ。それはしょうがない。だが、だとしたらパーティールームにいた二人にも絶対に聞こえたはずじゃあないのか? 一人きりなら警戒して閉じこもるのも分かるが、二人いるなら何があったのかと顔を出してもおかしくないはず。
それをせずにいるということは、どういうことだろう?
ひょっとして、あの悲鳴が聞こえないような状況になっているとか――
僕の考えがまとまらないうちに、エジソンの手によってドアが開かれる。
「ぶち殺すぞクソガキ!」
「やってみろババア!」
パーティールームの中央で、ティアとメアリが絶叫しながら互いの髪を掴み合っている。




