夜
「うおお、凄い! 凄すぎる! こんな部屋初めて!」
感動のあまり叫びながらベッドに飛び込む。いつもの固いベッドなら衝撃でのたうちまわるところが、ベッドが柔らかいから何のダメージもない。
「行儀が悪いな、まったく。とはいえ、確かに、並みの宿を超えてるな。金がかかってるよ」
横のベッドに腰掛けて、ヴァンは興味深げに部屋を見回す。
「一部屋一部屋にシャワーもトイレもついているし、明らかに大金持ちや貴族連中がターゲットだろうな」
そうして、ヴァンは部屋の一面、廊下の反対側に位置する壁を向く。僕も同じ方向を向く。そこには、この潜水館の一番の特徴がある。
一面のガラス張り。水晶ガラスによるものだ。
「寝室から外の、海中――じゃなかった湖中の様子が見れるなんて夢みたいですね」
はあーと思わず感嘆のため息をつく。
「一応、地下……ってのもおかしいか、下に、もっとはっきりと様子を見ることができる調査室がある。そこだと全面ガラス張りらしい」
「へえー、じゃあ遺跡の本格的な調査はそっちを使うんですかね?」
「あくまで本来は学術調査用ですよ、って言い訳のための部屋だろ、多分。この部屋やあのパーティールームで分かる。意図が透けてるよ」
「ひねくれてますねえ、ヴァンさん」
「ほっとけ」
一面のガラスを眺めながら、二人で会話する。だが、とうとう耐え切れなくなり。
「……もう、カーテン閉めません?」
「だな」
もう既に潜水を始めているのだろう、そして真夜中。一方部屋の中は明るい。結果として、一面のガラスの向こう側は真っ暗であり、ほとんど黒い鏡のような様相を呈している。中々、部屋の一面が鏡になっている状態で落ち着けるものではない。さすがに向こうもそれは分かっているらしく、カーテンが備え付けられている。
縛っていた紐をほどき、大きなカーテンでガラスを隠していると、
「そういや、ディーコンいるだろ。聞いたか?」
後ろからヴァンに声をかけられる。
「何がです?」
振り向かずにカーテンを閉めながら返す。
「顔色悪かったろ。あの理由」
確かに、顔色は悪かった。それは印象に残っている。声にもどことなく覇気がなかったような。
「いや、知らないです。聞いたんですか?」
「ああ、食後にちょっと話になってな。船酔いらしい」
「嘘でしょ」
どうして潜水館に来たんだ。いや、それに。
「そんなに揺れますか? これ、今だって潜水してるんですよね? 全然、揺れも何もないし、凄い快適だと思うんですけど」
「俺もそう思う。水の上に浮いていること自体が、どうしょうもなく嫌なんだってさ」
本当に、どうしてここに来たんだ?
「にしても、確かに言う通り全然揺れていない。潜水している最中なのに。見事すぎるな」
「ですねえ、これならすっきりと寝れます」
ベッドにごろんと横になり、おやすみモードでそう言うが、横のヴァンはベッドに腰かけたまま、黙って何か考えている。寝ようとしている顔ではない。
「あのお、どうしました?」
「ああ、いや、本当に……見事すぎると思ってな」
「え?」
「俺は、名探偵でもあるが魔術の天才でもあるのは知っているだろ?」
自分で言うか?
「その魔術の天才から言わせてもらうと、そもそも魔術で潜水するのは非常に難しいんだ」
そう言えば、潜水館で初めて潜水して湖底の調査をするということは、逆に言うと他の方法では調査できなかったということだ。だが。
「素人考えかもしれないですけど、魔術で水を操って自分の周囲を空気で囲んで、ほら、大きな泡に包まれたみたいな感じで潜水ってできないんですか? それならずっと水の中にいれそうですけど。あとは、逆に空気の方を操作して、水に空気の穴を掘っていくみたいなイメージとか」
結局のところ、呼吸ができないことが最大の問題なのだから、魔術でその問題をどうにかすればあとはどうとでもなりそうな気がするが。
「そううまくはいかない。まず一つ、どっちの方法にしろ、水を押しのけて自分の周りに空気を集めること自体はそこまで難しいことじゃあない。問題は、それを『維持』しなければならないことだ」
「維持、ですか?」
「そう。例えば炎を操って燃やすなら、魔術で燃やした後は放っておけばある程度勝手に燃える。風を操って吹き飛ばすのだって、吹き飛ばすまで魔術ですれば後は知ったことじゃあない。ところがさっきココアが言った方法だと、それを維持し続けなきゃならない。途中でやめたら、その瞬間空気はどこかにいって水が押し寄せてくるわけだ。だから、常に魔術を使用し続けなくてはならず、途中で集中力が切れたら即溺死だ」
ひええ。
「二つ目。水圧ってのがあって、まあ、端折って話すと、深く潜れば潜るほど、水を押しのけておくのに必要な力は大きくなっていくはずだ。カルコサ湖の湖底レベルだと、一瞬だけ水を押しのけるだけでも相当な魔力を消費することになると思う。爆破の魔術で小城一つぶっ壊すレベル必要なんじゃないか」
ひええ。
「三つ目。じゃあ、たとえば鉄の箱なんかに入って、呼吸の問題だけなんとかしておいて他を魔術を使って潜水しようと思っても、これまた非常に難しいはずだ。潜水するには、沈んで浮かばなければならない。一方通行だとダメだ。当たり前だけどな。とすると、水流を魔術で操作して、ゆっくり沈んだり浮かんだりをしなければならない、が……これにもやっぱりさっき言った維持の問題が関わってくる。もし、その箱が通常水に浮くのなら、沈む時には魔術で沈ませ続けなければならない。切れた瞬間浮上するからな。湖底についても、ずっと魔術を使用しておかないといけないだろ? 逆にその箱が元々水に沈むなら、今度は魔術で浮上させ続けなければならない。切れたらまた沈むわけだ。分かるか?」
「はああ……ってことは、この潜水館っていうのは、本当にヴァンさんみたいな魔術の天才から見ても、信じられないくらいの大発明なんですねえ」
素直に感心するが、
「だから、そこだよ。俺が気になっているのは。今だって、潜水中なのに揺れひとつしない。見事すぎる水流のコントロールだ。なあ、本当にこれをあの『親の財産食いつぶしトンデモ発明家』のパパゲアが発明したと思うか? いくら金にあかせて一流の職人や一流の材料を集めたとして、だ」
そう言われると確かにおかしな気がしてくる。ヴァンほどの魔術師をして、不可能なレベルの偉業を成し遂げる発明品、それをあのパパゲアが、金の力だけでなんとかできるものなのだろうか。メモ帳を取り出してぱらぱらとめくる。確か、事前に仕入れた情報では、この潜水館には複数のマジックアイテムを組み合わせて使用してあるという説明だった。だが、マジックアイテムというのは結局のところ魔術師の代用品だ。それをどれほど使ったところで、こんな巨大な館を自由に沈めたり浮上させたりできるものだろうか。おかしい気がする。
さらに、僕の頭に疑念が差し込まれる。待てよ、おかしいと言えば最初からおかしかった。話題の潜水館を調査できる、記事にできるということで浮かれていたが、そもそもどうしてヴァンはこれに参加しているんだ? こういう催しものが嫌いだということをよく知っている。できる限りパーティーの類には参加したくない人種のはずだ。多くは妻と妹に任せるはず。前回の事件――タリィたちの同窓会については、その妹の急遽の代役として参加していたはずだが、今回は? 何と言っていた? 断れない筋からの頼みだとか言っていなかったか? 妹や妻ではなく、ヴァンが出るように誰かが頼んだ。誰が? パパゲア? まさか。仮にそう頼んだとして、その頼みをヴァンがきくはずがない。というか、ヴァンが代理で自分を送り込もうと画策していたのを例の裏社会の住人っぽい男を送り込まれて失敗、結果として今二人で参加しているのだ。一体誰が? そして、何のために?
不安が膨らんでくる。あれ、ひょっとして、妙なことに巻き込まれているのか?
「ヴァ、ヴァンさん、あの――」
どうせ素直に答えないだろうが、それでもぶつけるだけ疑問をぶつけてみよう。そう思うが。
「今回の潜水館のお披露目会の参加って――」
だが、いつの間にかヴァンはベッドの上に転がって眠りに落ちている。大口を開けて、よだれまで垂らしている。大人の寝方じゃあない。
ため息。しょうがない。だが、明日起きたら、あさいちで訊いてみよう。何か妙な予感がする。先に手を打っておいた方がいい。
照明調整のダイヤルを捻り、部屋を暗くする。今この瞬間、湖の奥深くに自分がいるのだと考えると妙な気がしてくる。ベッドにころんと横になって目をつむる。余計なことは考えるな。不安になって寝付けなくなる。だが、脳裏にはどうしてもイメージが浮かぶ。自分が、ただひたすらに真っ暗い湖の底へと深く沈んでいくイメージ。そして、それをじっと見つめているものがいる。その視線を感じる。蘇った死者、カルコサの視線。
目の前には死体が転がっている。
こんなはずではなかった。さっきから何度も繰り返しそう思っている。だがそれで死者が蘇ってくれることもなければ、死体が消えてしまうこともない。
テーブルの上には二つのグラス。両方になみなみと真っ赤なワインが注がれている。
どうすればいい。どうすれば。
グラスの処分。いや、今更無駄だ。当初の計画は変更だ。どうすればいい。考えがまとまらない。
視線が彷徨う。ふと、像に目がとまる。肘から手の先ほどのサイズの彫像。血に塗れたその像。カルコサの像だ。胸の前で両腕を交差させた像。この像をどうにかしなければならない。どうにかしなければ? どうすればいいのか?
死体。そしてわずかではあるが床にある血痕。途方に暮れるしかない。こんなはずではなかった。一体どうしてこうなってしまったのか。あるいは。
これは、カルコサの祟りか?