第1話 日課
見た瞬間血が沸きあがった。
僕が視線を向ける先。公園の一角で、子供等が小さな猫を棒でつついたりと虐めて遊んでいたからだ。その猫の真っ白な体毛は泥に汚れ、随分衰弱しているように思われた。そんな状態だからきっと逃げるに逃げられないでいるのだろう。そう判断した僕は、一目散に駆け出した。
「おい!何をしている」
「――ッ!・・・逃げろ」
一人の子供が声を上げたのを筆頭に、数人居た子供は全員逃げていった。
まったく、遊びと言っても限度というものがある。動物を虐めるなど、子供の頃からあんなようでは将来が思いやられる。
文句を垂れつつ、僕は改めて猫に向き直る。
「もう大丈夫だよ」
安心させる為語りかけようとした所ではたと気づいた。ピクリとも動かない。まさか死んでる!?
僕は慌てて猫を持ち上げた。触れられてもまるで抵抗を見せず、ぐったりと僕に体重を捧げる状態に戦慄を覚える。が、微かに上下するお腹を確認し、思わず安堵の息を吐く。
よかった。少なくとも息はしているようだ。首輪はしていないし、野良猫かな?なら僕ん家に連れて行っても問題ないか。
早々と結論付け、僕は猫を抱え足早にその場を立ち去った。
*
家まで運び、意識を取り戻した後でも、その猫は逃げようとはしなかった。ただし、信用した訳でもないようで、その瞳には明確な怯えが伺える。
実際、あんな酷い目にあったのだ。人間そのものに不信を抱いても致し方ないと僕は考えている。それでも僕の出した料理を綺麗に平らげた事には一先ず安堵した。元々衰弱していたのが起因だったのか、幾分元気を取り戻したようで安心した。唯、やはり警戒を解くには至らずだ。それでも、僕が伸ばした手を受け入れてくれる程度には認めてくれたようだ。
僕はその銀色に光る毛並みをゆっくりと撫で、そっと言葉を掛ける。
「安心して・・・ってのはまだ無理か。でも、僕は絶対に君を虐めたりしないよ。誓って」
理解してくれるとは思っていない。でも、語りかけるのは大切だと僕は思う。気持ちだけでも通じれば、思いは届くと思うから。だから、僕はひたすら笑顔で向かい合った。気持ちは・・・・通じたようだ。僕の手を舐め始める仕草が愛らしい。まだ怯えは完全に取り去られた訳ではなさそうだけど、少しは慣れてくれたようだ。
「ありがとう」
思わず頬を緩め、今度は頭を撫でてあげる。一瞬身体を強張らせた猫だが、すぐに身を委ねてくれた。うん。この分なら、僕の家で住まわせても問題はないね(無論束縛をする気ではない。自由に出入りしてもらって構わないという意味だ)。
そうと決まれば、さて
「君の名前は・・・・」
*
『・・・こ・・・・こと・・・まことっ』
微睡みの中、カーテンから溢れる朝日の熱を感じる。それと同時に、自分以外の存在も。甘い囁き声に穏やかな温もり。無形の安心感を与えられ、思わず半覚醒した意識を手放したくなる。とはいえそんなわけにもいかない。
「う、うう~ん」
情けない声・・・
自覚はしているが、どうも僕は朝に弱い。それよりもだ。
何だろう、顔が妙に暖かい。いや、これは・・・唇が、か?
「う、ん?」
重い瞼を開け、朧げな視界先で揺れる白い影。鼻先間近に迫る深緑の瞳。やがて、口に微かな息が掛かり、ここでようやく口を塞いでいた元手が離れた事に気づく。焦点が合うにつれ、ようやく鮮明に情景が浮かび上がった。
「にゃ~」
文字通り眼前で甘く鳴くのは、白い猫であった。毛の一本一本が不思議な光を放ち、毛並みは溜息を漏らすほど綺麗に整っていてまるで銀色だ。そして、僕を見下ろす二つの深緑の瞳が力強い意志を灯しているようで、真珠のように煌めいている。
「おはよう、ルナ」
名前はルナ。一年前から一緒に暮らす僕のたった一人の家族だ。言っておくが断じてペットではない。
僕は挨拶とともに、胸の上に乗るルナをだき抱え優しく撫でてあげる。僕の胸に気持ちよさげに頬ずりするルナを微笑ましげに眺めつつ、ふと記憶を揺り起こす。
随分と懐かしい夢を見ていた気がする。
・・・それに、起きる直前、誰かの声が聞こえたような気がするのだが、それこそ気のせいだろう。この家には僕とルナしか居ないのだから他にいようがない。
と一人納得した所で、ルナに向き直る。
依然僕に擦り寄るルナの姿に、頬が緩むのを抑えられない。こうして幸せそうに身をよじるルナは、動物好きな僕のフィルター越しでなくとも、誰にでも愛されるであろう確信がある。ただ問題があるとすれば、僕以外に懐いてくれないということだ。ルナは元捨て猫だ。出会う前にあれ程酷い目に遭ったのだから仕方ないと思う。僕自身1年経った今でもむかっ腹が立つ程だ。しかし、少なくとも僕にはすっかり慣れてくれたみたいで安心している。が、やはり他の猫も人も含め、もっとルナ自身の友好関係を築いて欲しいものだ。
漏れかけたため息を飲み込み、僕は少し苦笑気味にルナを見詰める。僕の気持ちを汲み取ったのか・・・どうかは怪しいところだが一応、ルナは物言わずその場を立ち去った。静かになった部屋で、僕は溜めた息を吐きだした。
ルナはなんというか、物怖じしないタチらしい。いや猫だからかもだけど。僕が家にいる間はずっと僕のあとを離れたがらず、挙句には手洗いの場まで追従してくる始末だ。今では止めさせているが、入浴や就寝などに関しては頑として拒否の姿勢を崩さない。猫と口論とか、傍から見れば異常に思われそうだがこれが我が家の日常である。で、今僕がしようとしている着替えも最近になりようやく承諾してくれた事例の一つに入る。今更何をと思われそうだが、僕にとっては意外と重要であったりする。
いや、単に気恥ずかしいだけかもしれないが、それはルナが妙に熱っぽい目で見詰めてくるのが原因だ。何ていうか、猫らしくないというか。それは僕自身、ルナをペットとしてではなく家族として接しようと決めている所為なのかもしれない。
・・・・まあ、とにかく着替え時は部屋を出て行くようお願いしてある。ルナも分かってくれているようだ。
さてと体を起こし、手早く身支度を済ませる
いつも通りの黒い制服に緑のネクタイを締め、意気揚々と自分の部屋を後にする。向かうは一階の台所。勿論用途はいわずもがな。ところで、ルナの姿が見当たらないが、まあ呼べば来るだろう。
料理をするのは好きだ。でも一緒に食べてくれる者がいなくてずっとわびしい思いを抱えていた。でも今はルナがいる大変ありがたいことだ。ルナは基本なんでも食べる。無論だからと言って何でもかんでも与えているわけではなく、猫が食べてはいけないものは調べて除外して、その上で僕と同じものを食べさせている。ここまで徹底するともはや病気だ。それは自覚している、しかし当時は誰か、それがたとえ猫であろうと一緒に食べることは、両親共々無くした僕にはとてつもない幸福に感じたのだ。そんな日々が定着して今に至る。今は反省してルナにすまないと思いつつも一緒に食事をして相好を崩している。実は少し前に猫用の缶詰を出した事があるのだが、ルナがすっかり今の食事に慣れてしまったのか一口も食べなかったのだ。それどころかどこか怒ったような様子を表したのだ。それ以来我が家ではこの最高の一時が日常風景だ。
当たり前だが無言の食事風景が過ぎると僕は空になった皿を洗面台下の籠に入れた。すると、ルナは僕に近寄りその手を舐め始める。
それが僕の料理の腕を賞賛しているのかは定かではないが、ひとまずそう解釈することにする。そう思うとなんだかずっと嬉しくなり、お返しにルナを撫でてあげた。
ふとルナが顱骨に視線を上げた、僕ではなく横。古びた振り子時計に。祖父の代からの大切な物とは聞いているが、少し部屋の風景にはミスマッチな気がする。
と、焦点が時計の針に止まった。7時50分。ホームルームは8時30分。徒歩片道30分。
・・・微妙だ。でもチャイムギリギリはマジで勘弁。
時間には余裕を持ちたい僕は、食器などを手早く片付け、慌てる形で玄関へ向かう。ドアを開ける前に一言行ってきますと声を掛けるつもりで振り向いた僕の耳に、ルナの何かを示唆する鳴き声が届いた。視線を辿ると、あったのはスクールバック。手元を見下ろし、思わず「あちゃー」と声が漏れる。
いつも持っていく荷物を忘れるとかどうかしてる。気づかせてくれたルナに感謝し、バックを肩に掛ける。すると、ルナがその肩に乗っかってきた。肉球を僕の首に当て、まるで行かないでとでも言うかのように。実際にそうなのだろう。ルナは僕が出ていこうとすると決まって悲しそうに鳴き、僕にとっついてくる。僕だってルナ一人に留守番させるのは嫌なのだが、こればっかりはどうしようもない。
だから、僕はルナを安心させようと必死に言葉を選ぶ。
「ごめんな。僕もずっと君と居たいんだけど・・・悪い、留守番よろしく」
最後に「すぐ帰ってくるよ」と付け足し、ルナを降ろす。ルナは静かに僕を見上げ、そして軽く頷く。その姿を目に焼き付け僕はその場を後にした。
これもまた僕の日課、日常だ。