第9話 異変
あれからどう帰ったか記憶にない。唯「どうしよう」というフレーズだけが脳内を闊歩し、他に何も考えられなかった。正直、よく交通事故に遭わなかったなと今になって顔面蒼白ものである。
「ただい――うおッ」
玄関のドアを開けた瞬間、顔面に柔らかい物体が引っ付いた。
いや・・・まあ何時ものことだから、想像するまでも無く
「危ないから、ルナ」
注意をしつつ引き剥がすと、よくできましたと言わんばかりに満面の笑みを浮かべるルナの姿が写った。これではまるで『だ~れだ?』とでも言っていたかのようだ。いつもならこのまま遊びに興じる所だが、気分が乗らない。原因は見え透いているが、ルナに敢えて言う事でもない。
薄く微笑みを湛えつつルナを降ろす。
「にゃ~にゃ?」
「ん?いや別に何ともないよ」
ルナは、前にも言ったが人と対等の心を持つ結構凄い猫だ。喜怒哀楽を理解し、しようとする。御陰で僕も自分が気遣われている事に逸早く気づくこともできた。が、ルナもルナで流石だった。
先までの甘えモードが一転、真剣で愁いを帯びた目線に早変わりしていた。僕はお説教モードと呼んでいる。
こうなると本音を言うまでこれを保ち続けるんだよな~。
「はあ~・・・分かった話すよ」
「にゃ!」
結局折れるのはいつも僕。対処法も一年経つが未だわからん。
――改まってリビングの机で向かい合う。傍から見ても、僕が猫にお説教を受けていると理解してくれそうな絵面だ。要するに、ピシッと卓上で背筋を伸ばし、一心に僕を見詰めるルナと。それから目を逸らし軽く俯く僕の風景だ。
なんだか情けない。
「にゃーにゃにゃッ(さあ言えッ)」
多分人の言葉は十中八九分かるのだろうけど、生憎と言語には出来ないので僕が勝手に脳内変換している。しかし・・・、話すと言っても僕自身訳分かんない状態だしな・・・・
「・・・・・・・――痛ッ!!」
「にゃーごにゃごにゃッ(今更渋ってんじゃないッ)」
うじうじしてたら引っ掻かれた。しかも顔を!
「わ、分かった。言うよ」
「にゃッ(うむ)」
「・・・・・・・・ど、同級生に告白されました。どうしよう?」
何だか自分が馬鹿に見えて来た。
しかし、どうしようもないという事態なのは確かだ。僕自身、彼女と付き合うことに嫌悪は無い。問題なのは彼女、峯浦さんがそれで幸せかということだ。峯浦さんの人徳とルックスなら、僕なんかよりよっぽどいい男と巡り会えそうだというのは誇張ではない。あれだけの人気を博している峯浦さんなら、唯の高校生に限らず、御曹司とか、将来的に有望な人ともいけそうな気がするし、実際入学以来累計2桁は告白されているという。その点本当に選り取り見取りだろう。第一僕と付き合ってメリットなど皆無。寧ろ不幸になる倍率が高い。だからこそ、断ることを前提に考えていたわけだが、
・・・やはり難題だ。
「はあ・・・」
改めて現状を再確認し、絶望に打ち拉がれている最中・・・いや、ルナは終始無言であった。黙って話を聞いているかと思っていたが、終わっても一向に反応がない。はてと目線を上げ――驚愕した。ルナの真っ白な体が小刻みに震え、いつも光と意志を宿す素敵な瞳に、ものすんごい影が差していたからだ。
「ど、どうしたんだルナッ」
こんなルナ、今まで一度も見たことない。いつも元気に走り回り、愛嬌を振り撒いていたあのルナが・・・。慌てて手を伸ばすも、虚しく中を掴んだだけだった。というのも、一瞬の内にルナが逃げてしまったからだ。
「ルナっ!」
再度の呼びかけにも応じず、ひたすら僕から逃げるように去っていった。
「ルナ・・・・・・・――ッ!」
肩を落とした僕の目に飛び込んできた物に、思わず息を呑む。机に点々と辿る物は、紛れもなく雫だった。
涙。僕がこの世で最も見たくない物第二位だ。皮肉にも、涙を見たくないがための相談で家族の涙を見る羽目になるとは・・・・
「何なんだ・・・・何なんだよ・・・」
呪詛のように焦燥感を口々に吐き出す。僕は何をすればよかった?どうすれば最適だった?結局、僕は誰かを不幸にする事しか出来ないのか。誰かを、この手で幸せにすることは出来ないのか。どうすれば、ルナも峯浦さんも笑顔になるんだッ・・・・
ぐるぐると同じ思いが巡り、散っていく。
「・・・寝るか」
空腹も感じない。とにかく、今は何も考えたくなかった。