一日目:運命的邂逅⑤
もう最後まで書けてるのになんで一カ月も間が空くのか……
彼女を日陰のベンチに足元を高くして横たえ、自販機で買ってきたスポーツドリンクを飲ませてあげた。その上で僕は今ベンチの横にしゃがんで、学生鞄から取り出した未だ綺麗なままの教科書で彼女をあおいでやっている。
しかし学校の勉強というのも割とバカにならないモノらしい。特に保健体育や家庭科などの生活に結び付きやすい教科はまじめにやっておいて損はないと僕は断言しよう。現に僕は今この場において熱中症への対応を中間試験で習ったことに感謝している。そのおかげで彼女に適切な処置を施すことが出来たのだから。
といってもそれはやはり素人の処置であり、後で病院に行くことを勧めなければならないのは明白であったけれど。
「ごめんね、迷惑かけちゃって……」
まだ赤みが抜けきらない頬をしながら彼女が謝罪の言葉を述べる。僕はそんな彼女に気付かれないように小さくため息をついた。
「別にいいよ」
迷惑は迷惑だが。さすがに人命がかかっている時に面倒だと切り捨てられるほど薄情者ではないし、それを言って病人に追い討ちをかけるようなことはしない。かといって気の利いた言葉をかけられるわけでもないけれど。
「……ありがと」
苦しそうな彼女は、僕のそんな返答にそれでも笑みを浮かべてそう言った。
「……」
「……」
僕は初対面の人間に対してそれほど口数が多い方でもないし、彼女の方は話すのもつらそうだったので、自然僕たちの会話は途切れてしまった。僕が教科書で彼女をあおぐぱたぱたという音と、蝉の鳴き声だけが辺りに響く。
「…………なぁ」
沈黙に耐えかねるという程には僕の精神力は脆くはなく、だからといって彼女が沈黙を苦痛に感じているかもしれないと慮る心があった訳ではないが、なんとなく僕は会話を試みることにした。
「ん?何かな?」
「どうして君は熱中症なんかになったんだ?」
僕の質問の意図が把握し切れてなかったのか、彼女は呆気にとられた顔をした。しかしそれも一瞬のことで、すぐに答えてくれた。
「それは、水分補給してなかったから……」
と思ったら全く見当違いな答えが返ってきた。
別に僕はそんなわかりきったことを聞きたかった訳ではもちろんない。
「いや、僕が聞きたいのはそういうことじゃなくて、どうして水分補給しなかったのかってことなんだけど。スポーツマンなら体調管理もトレーニングの内じゃないのか?」
それくらい言わなくてもわかりそうなものであるが、もしかして、いやもしかしなくとも、彼女は少し天然が入っているのかもしれない。
そう思いつつ僕が改めて聞き直してみると、彼女は思い違いを恥じたのか、それとも体調管理を怠って倒れたことを恥じたのか。彼女は収まりかけていた顔色をもう一度赤くして頬を掻いた。
「アハハ……トレーニングしてるうちに夢中になっちゃって。それに、今日のノルマもちゃんと消化しなくちゃいけなかったし……」
苦笑しながら放たれる言葉は、努力というものを諦めた僕には全く理解できなくて。
「倒れるほどやらなくてもいいだろ。将来スポーツ選手になるならともかく、高々部活なのに……」
気付けばそんなことを言ってしまっていた。それは部活に心血を注いでいる人間にとっては侮辱ともとれる言葉であろうに。
そもそも僕は彼女にそんなことを訊く間柄でもないのに。それでも気になってしまった僕は彼女に尋ねた。
けれど彼女は僕の暴言に怒るでも傷つくでもなく、眉を下げるだけであった。
「……私、才能ないから。努力しないとみんなに迷惑かかっちゃうよ。ほら、私ってテニス部のレギュラーだし」
「才能がない? それはさすがに謙遜しすぎじゃないか?」
才色兼備のテニス部エースが一体何を言うのであろうか。
謙遜は日本人にとっての美徳であるが、度の過ぎた謙遜はされた側に不快を与える。
例えば行き過ぎた謙遜は卑屈に聞こえる。「自分ごときが」「自分なんかが」といった言葉を延々と続けられていれば、言っている側は謙遜しているつもりでも、聞かされる側は誰もが嫌になるように。
またそれは嫌味に聞こえることもある。赤点付近をさまよう人間が学年一位の成績をとり続ける人間に「俺、全然勉強できないんだよね」と言われれば、表現は謙遜の言葉なのに嫌味以外の何物にも聞こえないように。
二つの内、後者の不快を感じて眉をしかめる僕に、しかし彼女はどこか悲しげな苦笑を見せ、
「ううん、ほんとだよ。普通にやっててもあんまりできなかったから、努力してるんだよ」
それに、
「人間って努力しないと駄目になっちゃうでしょ?」
彼女のそんな言葉に、僕の感じていた不快やら何やらは全てかき消されてしまった。それはそれほどのインパクトのある言葉だった。
あぁ彼女は、努力をやめてしまった人間に向ってなんてことを言うのであろうか。
もちろん彼女が僕という存在を深くまで知った上での発言でないことはわかっているし、また彼女が知っていたとしてもそれは僕を傷つけるために為された発言ではないだろうということは、この短時間に触れた彼女の気質より理解できる。だからこれは僕の身勝手な感傷に過ぎない。
それでもその言葉は間接的にとはいえ僕の人間性の惰弱さを糾弾するものであったのだ。
言葉はナイフになりうるだとか、言葉で人を殺すことが出来るだとか、小説でよく見る表現だけど。まさかこんな所でそれを実感することになるとは思わなかった。
彼女の放ったそれは、怠慢な僕の心に深く、深く沈み込み、どす黒い血を溢れさせた。
「そういうもんかな?」
「そういうものだよ」
そんな彼女の言葉によって生じた得も言われぬ感情が僕に強要した選択は、逃げの一択だった。
これ以上彼女と話したくない。これ以上彼女と一緒に居たくない。これ以上彼女に関わりたくない。
関わったら、僕は壊れてしまうかもしれない。
そんな恐怖にたちまち襲われた僕は、教科書を鞄の中にしまい無言で立ち上がり。そして、彼女の掛ける声も聞こえないふりで帰宅せざるを得なかった。