くまさんと萬次郎④
そんなこんなドタバタしながら準備を済ませると、三人連れ添いながら出かけました。午前中の雨が時間とともに上がって行く気温に蒸発していくかのごとく、ちょっと蒸し蒸ししてきました。そんな事を気にせずにくまさんは歩を進めて行きます。
さて河田様の当時のお屋敷はくまさんが行き倒れていた神田明神の裏手をちょっと行ったところにありました。たいそう大きそうな門塀で、果たして戸を叩いても簡単に開けてくれるかどうか、開けてくれたとしても入るのが憚られるような立派なお屋敷でした。それでもお鳩さんが事前に話しをしてくれていたようで、ノックをすると簡単に門は開き、くまさんたちは直ぐに中に入ることができました。卯吉は「ずいぶん場違いなところに来ちまったなぁ〜。」と感心するばかり。やがて奥の座敷に通されると、しばらく待たされることになりました。四半時ほどたったでしょうか? お鳩とは違う清楚でなでしこのような女性が出てきました。
「香絵ともうします。くま先生ですね。お初にお目にかかります。」
それを聞いた途端、「ぷぷっ〜」とお鳩は吹き出して…。
「香絵ちゃん、何ツー言葉使いなの? 何か見ていてハラハラしちまうよ! 先生なら大丈夫よ! あたしで十分慣れているから問題ないよ〜。それに汚いじじいだしぃ〜。」
それを聞いて香絵は顔を赤らめながら、
「こら、お鳩ちゃん! そんなことばっかり言ってると、本当にお嫁に行けなくなるわよ! 少しは女の子らしくしなさいよ! そんなことじゃまずいわよ〜?」
「そうねぇ〜。やばいかも??」
それを聞いた香絵は「やばいって何?」と不思議そうな顔をしました。
しばらく世間の四方山話をしていましたが、次第に卯吉がじれったそうにそわそわしだしました。そして耐えきれずに話を切り出しました。
「ところでその萬次郎さんと言う方はどちらに?」
「そーだ、その話が今日のメインだったのね?」と言った感じで香絵はポンと手を叩くと、
「そうですね。今は離れのほうにいらっしゃいます。ちょうど父が出かけているので今だったら少しは大丈夫でしょう。」と言うと、すぅーっと立って、「さあ、こちらへ。」と案内をしてくれました。
母屋から出て、離れの入り口のところで、「香絵です。入りますがよろしいですか?」と言うと、彼女は少し間を置いて引き戸をあけました。
お鳩が、
「何も返事がないけど大丈夫?」と聞いたところ、
「こちらの言葉がわからないので、とりあえず人がいることだけでも伝えてあげるようにしているのです。」と香絵は優しくにこにこして言いました。
中に入ると一人のちっちゃなうだつのあがらなそうな男が壁を見つめてぼーっとして座っていました。
「いつもあんな感じなんですよ。」と香絵がため息をつきながら言うと、
「なんかしまらないおじさんねぇ。あれじゃそこらのどざえモンと一緒じゃない? 何かちょー調子くるっちゃうわ!」とお鳩が間髪入れず突っ込みを入れます。
「まぁまぁお二人とも、そんなことをおっしゃらないで…。」と卯吉がとりもちをするのですが…。
外からの風で、風鈴がちりんちりんと、涼しげな音を立てています。
くまさんは、そんな外野の話を無視して、気力の抜けた彼の耳元でちっちゃい声でぼそぼそっと何かをつぶやきました。
その瞬間、今まで何を言っても死んだような目をしていた男が突然ぎょっとした表情をしたのです。そして次の瞬間目から大粒の涙をぼろぼろと流し始めたのです。続けてくまさんがまた二言三言ぼそぼそ言うと、彼の血の気のなかった顔がみるみるうちに明るくなっていきます。そして次の瞬間、彼は息せきを切ったようにわけのわからないことをしゃべり出したのです。それはまさに今まで耐えて耐えて耐えつくした苦しみを、今一気に吐き出すかのようでした。
彼はそのまましばらくの間、くまさんに向かって何かをずっと言い続けていました。くまさんは例の黒板をあるときはたたきながら、あるときはぐりぐりしながら「うんうん。」とその話を聞いていました。
やがて男の話が一息つくと、くまさんはまた何かを彼に言った後、みんなの方を向きながら、一言つぶやきました。
「彼は本物の『ジョン万次郎』だね!」