くまさんと萬次郎②
時間はちょうど辰の刻、というのだから今で言うと朝8時すぎくらいでしょうか? 昔の人は夜暗くなれば寝るし、朝日が出れば起きて仕事をはじめるような生活をしていましたから、もうこの時間となれば眠気眼をこするような人はほとんどいません。日がさんさんと照っていて、日本橋界隈は商いで活気が溢れています。瓦版屋で担当ディスクをやっている卯吉も、あちこち走り回って次号の原稿を集めています。ただ今は梅雨がもうすぐ終わろうとしている夏の初め。暑いし蒸し蒸しするし、ほぼ全身で潮吹きのばてばて状態で長屋に飛び込んできました。くまさんが彼にとって最後の担当なのです。
「くまさん、くまさんはいるかい?」
卯吉はほとんど転がりながら長屋に入ってくるなり、がらがらの声で言いました。「あと、水頂戴!」
くまさんはまだ眠たそうです。さっき目覚めたようなのですが、まだ布団から出てきていません。
「なんだ、ラビかぁ。(くまさんは卯吉をなぜかラビと呼んでいます。)お前まだ朝早いのに、騒がしいぞ〜!」
まだ目をこすっています。ようやく起き上がると、
「大丈夫だよ!そんなにあわてるこたないぞ〜。原稿は昨日ちゃんとやっておいたから。」
「いやぁ〜、そりゃありがたい! 旦那はいつも原稿ぎりぎりだからたまんねぇ〜。ゲラ刷りに間に合わなかったら本当に編集長に大目玉なんで、いやぁ〜、できてなかったら本当にどうしようかと思いました。」
水を一杯飲んで、且つ原稿が出来上がっている事を知って、卯吉はようやく落ち着きました。
「だって旦那の占いはもう人気で、どんだけ刷ってもすぐに売れてしまうんだよ。いやはやこの不景気にありがたいこったって。」
「そうか、それはうれしいねぇ〜。ほいよ! これが次号の原稿だよ!」くまさんは仕事机の上にあった封筒に入った原稿を卯吉にぽ〜んと渡しました。
「ごっっつあんです。」
卯吉は原稿をうやうやしく受け取ると、代わりに原稿料の入った便せんをくまさんに手渡しました。
「おう、ありがとよ! これでお鳩に今月の家賃が払えるよ! ラビがいなかったら俺もここにはいられんかったからなぁ〜。」とくまさんは言いました。
「ちゃんとした仕事を紹介してくれて、これでおまんまにも寝るところにもありつけるからなぁ〜。」
と拝むように手を擦りながら言いました。
「でも、旦那って不思議ですよね? 占いが本当によく当たるんだよなぁ。どうしてなんですか? ひょっとして予言者なんかじゃないの?? こないだお鳩さんの友達が来たときも、ちょっとその黒板をたたいて、『今日は金銭運が良いねぇ〜。何かいいことがおこるよ!』って言ったら、本当にあたっちまったしねぇ。彼女、富くじかったらあたって何と2両ももうけちまって! これでかわいい着物が帰るって大はしゃぎでしたよ。おいらだったらすぐ吉原にいっちゃうんですけどねぇ〜。」
「いやいや、あれこそ偶然よ!」
くまさんは笑いながら言いました。
「でもくまさんねぇ〜、いつも不思議なんだけど、その黒板はなんなんだい? そんじょそこらにあるものでもないし、どこか南蛮渡来の秘密でもあるんかい?」
と卯吉は不思議そうに、いつもくまさんが大事そうにもっているその黒板を指差しながら聞きました。
「これかね? これは『あいぱど』というとある占いの道具なんだよ〜。普通の人には単なる黒い板なんだけど、私のようにいろいろと訓練を積んだ人には不思議と文字が見えてくるんだよ。熟練すると言葉も聞こえてくるんだよ。私はそれを記事にしているだけなのさ。でもね、これを使うには並外れた時間と訓練が必要なんよ〜。」
「へぇ〜、そうなんですかぁ〜。どんな声が聞こえてくるんでしょ? やっぱり甘くささやく女の声?」
「ははは、そんなに色気はないよ。そういう邪念がある限りは、何も見えないぞ! 毎日毎日修行をして、辛い鍛錬があってこそ、見えるようになるんだよ!」
「なるほど。でも人は見かけによらぬもの。ぷーのくまさんに修行だとか鍛錬とかは全然似合わないんですけどね。」
卯吉はちょっとおとぼけ笑いをしながらくまさんに言いました。
「ところでくまさん、話は変わりますが、神田明神裏のあの河田様のお屋敷に変な人が来たのをご存知ですかい? 何やら亜米利加とかいうところからこの国に戻ってきた様なんですが、今のご時世、外に出て戻ってくるのは御法度中の御法度。なにやら河田様がその取り調べの任を受けたそうなんですよ。で、連れてきたのは良いけど、どうも言葉がわからないそうで、何を言っているか見当つかう、それはそれは困っているようなんですよ。」
くまさんはふむ、という顔をしながら聞きました。
「その河田様って河田なんというお方なのかい?」
「あれ? しらないんですかぃ? 河田小龍様ですよ。土佐藩の。」
卯吉は、くまさんが行き倒れになってた場所が、その家の裏手であったことを聞き、「へぇ〜、そんなんだ!」と言いました。その後、手元にある例の黒板をぱぱぱ〜ん、とたたき、しばらくぐりぐりしたり、とんとたたいたのです。
「河田小龍様だったよね? なるほど〜。それじゃその外人さんはもしや『中浜萬次郎』というのじゃないかい?」
尋ねられた卯吉はびっくりして飲んでいた水を吹き出してしまいました。
「旦那、なんでその名前をご存知なんだい? 小龍様も知らなかったくせに、それに俺は一回もその名前を出したことはないし、それを知っている人はまだいないはずだよ! うちの編集長から聞いただけで、それもさっきですぜ! なんで旦那が知っているんですか〜?」
「いやいや、なんて事はない。占いで出たんだよ。その名前がね!」
ははは、と笑いながらくまさんは「そっかぁ〜。」という顔をしていました。
「でもね、旦那。その萬次郎さん、どうやら打ち首になってしまうようなんですよ。」
卯吉はちょっと顔を曇らせ、残念そうな顔で言いました。