第22話 ままならないものですね
気が付くと、我は真っ暗な空間にいた。
右も左も上も下もわからない。空気が肌を触れる感覚も何もなく、何の匂いも感じない。
全くの無が広がる空間。しかして、そんなものが現実世界にあり得るはずもない。
何も存在しない空間などそれはもはや空間ではない、ただの無だ。
現実で無いからと言って、夢とも言い難い。夢は結局脳が睡眠状態であるのに関わらず、意識が覚醒しかけてしまっている状態という事である。覚醒に近い睡眠状態の脳は、記憶の整理や定着を行っているとの事だ。
我はあまり夢を見ないタイプだが、記憶の整理をしている状態で、情報量の多い視覚情報が現れないというのは不自然すぎる。
ここは夢か、現実か。何故こんな不可思議な場所にいるのだろうと直前の行動を思い出してみる。
確か、勇者一行がマリーザの店にやってきて騒動が起き、その後マリーザ達と夕食をとって、その後はマアナと一緒に寝室に入って寝たはずだ。
つまり、信じられないがこれは夢ということだろうか。
我はとにもかくにも何か見えるものはないかと目を凝らしてみる。
すると、視界の中央くらいの場所から、横一文字に光の筋が生まれた。
既視感がある。これはまさか。
不安、緊張、恐怖、我程の存在が、そのようなもので心が満たされてしまっている。
こんなプレッシャーを与えられる存在など、この世界にそうそう居るはずがない。
そう思って目に力をいれると、まるで瞼を押し上げるように光の一文字が開いていく。
開き切った視界に広がっていたのは、地面一面に広がる花だった。
赤、白、黄、青。色とりどりに咲き誇る花。それがどこまでも広がっている。
我は左右に首を振って何者かが居ないかと探すが、誰もいない。
あの時と違って体が動く事に少し驚きながらも、誰の姿も見つけられなかった事に、安心に似た何かを感じて溜息をついた。
『ままならないものですね』
心臓が止まった感じがした。我の肌は、発汗することも忘れてムズムズとした感覚が全身の皮膚を襲う。
少なくとも先程周囲を見渡しても誰もいなかったはずだ。だが、だからと言って虚空から姿なく声が聞こえたとてここまで驚く事はなかっただろう。
居たのだ。目の前に。
音もなく、前兆もなく、まるで最初からそこに居たのを見逃していたかのように。
金髪碧眼で、まるで作りもののような美しい顔。動いて喋ると、まるで精巧な人形が喋っているような違和感すら感じてしまう。
白いローブを着た人間の女に見える彼女は、生命体なら当然起こる微細な動きすら全く感じさせないのである。
そんな彼女は、笑顔を浮かべて口を開いた。
『気付いているのでしょうか。あなたは生き物の範疇を超えました。しかし、それでもあなたの有り様は生き物です。その矛盾を突破するだけの力はあなたにありません』
笑顔のまま皺ひとつ作らず、本当に口だけを動かすように喋る彼女。
普通喋るとなれば、大きな動きではないが口以外にも顔全体の表情筋が動くものだと思うが、我の観察力をもってしてもそういった動きが全く感じられない。
つまり、彼女は筋肉の動きとは異なる原理で動いているのだろう。生き物の姿をし、それでいてその範疇を超えているのはむしろ彼女ではなかろうか。
そんな彼女が、ゆっくりと手を伸ばし、我の心臓を指さす。
『あなたが素直に新たな種として生を全うしなかった事は残念でなりません。しかし、慈悲として、貴方を生に縛る鎖を授けましょう』
その刹那、我の心臓に何かが巻き付くのを感じた。
それは鎖だ。しかし、その鎖は心臓の鼓動に合わせて伸びたり縮んだりとする、それどころか鼓動を助ける動きさえしているように思う。普通の鎖ではない事は明白だった。
彼女は続ける。
『あなたの命に残された時間はあまり長くありません。その上カオスドラゴンの性質から、場合によっては自分の死を厭わない力の使い方をするでしょう。その鎖は貴方の力を抑え、そして生命維持もある程度は助けてくれます。つまり、延命措置ですね』
まさに死の宣告である。普通であれば、まだ確定していない未来の話を断定的に言う彼女の言葉など俄かに信じられないかもしれぬ。
しかし、我の時間があまり残されていないだろうという予感は以前からあった。
彼女の言っている事には一々真実味があり、説得力がある。
だから、自分に残された時間が長くないだろうという予想をしていた我に答えを教えられた、そんな気分になる。
気に食わない。
我は眉をしかめて彼女を睨みつけた。
すると、彼女はわざとらしく不思議そうな表情をし、頭を少し傾けて問う様に言う。
『気に入りませんか?』
「ああ、気に入らぬな」
我はそう答えて、鼻で笑って言葉を続ける。
「我に何をさせたいのか知らぬが、貴様の思い通りに進むと思わぬ事だ」
威嚇を込めた唸りを交えて言った我に対し、彼女は微笑んだ顔で言う。
『あなたに何も望んでいませんよ。ただ安らかに残りの時間を生きてください。これは慈悲です』
一見優しさに満ちた言葉。ただ、彼女の言葉は信用できない。
まだ生きていたマアナの体に我の精神を強制的にねじ込み、我がマアナの心を食い殺すように仕向けたような存在だ。
彼女が言う慈悲という言葉を、我の考える慈悲と同じと考えてはならない。
それはきっと、ドラゴンと人間の感性が違うという事を実感して過ごしたからこそ、この価値観の違いが致命的な何かを生むと痛いほどにわかるのだ。
人間は我らにとっては不条理だ。例えば目の前に我が気に入った物があったとする。それを手に取ったら、誰かが「それは俺の物だ、勝手に取るな」と傲慢な主張をするのである。
我々ドラゴンにとって経緯など関係なく、最終的に手にした者が所有者だ。
だから、誰がどんな主張をするかなど関係ない、自分の物だと言いたいのであれば奪えばいいのだ、そうすれば自分の物になる。そして守るのだ、奪われないために。
だが、人間はそれを許さない。元々自分が持っていたという、我々ドラゴンに言わせれば醜く、だからどうしたとしか言えないような理屈を声高らかに掲げてさもそれが正義と言わんばかりに主張する。
元々所持していたなんて言い訳にもならないと思うし、大切な物だと言うのなら、何故守らないのだと首を傾げる。何故取り返そうと戦わないのだと呆れてしまう。
けれど、これが価値観の違いだ。人間側も我と同じく、ドラゴンの考え方に呆れたり首を傾げたりしているのだろう。
こういった価値観の相違は、対等な立場ならば擦り合わせて妥協点を探す事で解決に向かうものだが、対等でない場合や、お互いが対等ではないと思っている場合が問題なのだ。
弱き者は強き者の価値観に従わなくてはならぬのだ。これはそうするべきということではなく、そうしなければ生きていけないという事である。
ドラゴンと人間であればドラゴンの方が強い。だから、本来人間相手に我の価値観を押し付けても構わないという事になる。
とはいえ、現在の我は人間の文化の中に住まわせて貰っているという弱みがある。だから個の力としては強いだろうが、立場として弱いのだ。
そうして我の取っている態度は、従ってやっている、という立ち位置だ。我々ドラゴンと違って集団での生活に慣れている人間はそれを察してくれている。強者であるのに従ってくれてありがとうとさえ思ってくれる者もいる。
これは、現在の我と人間のパワーバランスが対話のなせる程度の所にあるという事なのだろう。
だが、目の前の存在はどうか。
戦えばきっと負ける。我の心ですらそう感じている。
そこには疑問の余地はない。戦いにすらならないかもしれないとも感じている。
我はこの理不尽な存在を憎いと思っているが、自制しているのはこの力の差によるところが大きい。
認めたくないが、我は怯えているのだ、心の深い場所が、自我の根幹が。
それほどの圧倒的な力を持つ彼女が、こちらの価値観に合わせるなどという事をするだろうか。
答えは否だ。
だからこそ彼女は一方的で、こちらの意思など確認する事もない。
確認する必要がないのだ。我の命に、いちいち何かを確認する程度の価値も見出していない。
だからこそ、そんな価値のない者の為に何かをするというのは、それが当人にとって望む望まないに関わらず『慈悲』であるのだ。
この考えを穿った考えだと思う者もいるかもしれない。もしそう思う者が居たとしたら、その者に言ってやりたい。貴様は強者として蹂躙する者の気持ちを理解していないのではないかと。
答えは無だ。弱者にとって蹂躙であっても、それを行っている強者は何も思わないのだ。
もし例えば弱者をいたぶることに何か思うのだとすれば、それは本当の強者ではない、立場の近い、弱者の群れの中では強い程度の存在でしかないのだ。
奪って当然の相手に、いちいち何かを思う必要などどこにあるというのか。
そして今回は我が弱者の側だ。
今まで長い間生きてきて弱者の側に立った事がなかったというのに、ここ最近は勇者といいこの女といい、我を弱者に突き落とす存在がやたらと現れて困る。
ふと、マアナの顔が浮かぶ。
まあ、そうだな。珍しい経験をして我は弱気になっているのかもしれぬ。
けれど、なさねばならぬ事を忘れてはならない。我の残された時間など関係ない、そもそも死などどうでもよい。
この女との力の差も関係あるものか、我ら誇り高いドラゴンは強者であるが故に中々見せる事はないかもしれないが、たとえ相手が格上だろうと負ける戦いだろうと構わずに己の全力を尽くして、命を懸けて自分の守りたいものを守る。
守る事は奪うという事。だから、我はこの圧倒的な存在からであっても我の誇りとマアナを必ず守り、そしてこの存在が我の誇りやマアナを蹂躙するような事を計画しているのだとすれば、こやつがそこで得るべきだった未来を奪ってやる。
その決意を目に込めて相手を見ると、彼女はそれを見透かしていたように笑って言う。
『覚悟は決まりましたか? いいでしょう。ただし忠告です。戦う以外に道はあります。あなたが憎悪を力にするカオスドラゴンである事はわかっていますが、意地にならずに、穏やかにしていればあなたも含めて皆幸せになれるでしょうね』
「一体何を想定しての事かわからぬな。まずは我の問いに答えよ。貴様は何者で、何を企んでいる」
沈黙が訪れた。
彼女は笑顔のまま微動だにせず、何も話さない。
まるで我の声が聞こえなかったかのように、我の言葉を待っているようにすら見えるくらいだった。
静かな空間の中で、我の鼓動しか音が無いように思う、そんな時間。
それがどのくらい続いただろうか、永遠にも感じたその時間は、唐突に終わる。
『さて、そろそろ時間ですか』
「貴様、ふざけているのか?」
『できるならこれで最後にしたいところですが、あなたの行動次第ですね。それでは、よい目覚めを』
「おい! 待て! 我の問いに──」
眩しい光が目を焼き、次の瞬間目に映ったのは。
心配そうに眉を歪ませる、マアナの顔だった。




