第26話 エピローグ side色蓮
嗅ぎ慣れた匂いに、慣れ親しんだ柔らかな感触。
それが自室のベッドだと気づくのに、そう時間は掛からなかった。
意識がぼんやりとした心地よい微睡みに、私は身を任せる。
……そういえば、たしか……。
寝起きは弱い。それ以上の思考がすぐにかき消される。
夢か現実か区別の付かないふわふわとした頭で考えていると、部屋の扉が控えめにノックされた。静かに気を遣う足取りで部屋に入ってくる。
……この足音は、多分佐藤さん。
何人かいる住み込みの家政婦、その一人。
探索者としての感覚を研ぎ澄ませた私には、いつの間にか足音だけで個人を判別できるまでになっていたらしい。
早くこの感覚に慣れないと、ダンジョンと地上の違いすら分からなくなりそうで怖い。日常生活には全くもって不要な力だ。
……ん? 探索者? ダンジョン?
…………。
私は飛び起きた。
「――お、お嬢様……起きてらしたのですか」
「い、いい今、何日ですか!? いえ、私は一体どれくらい寝て――」
「落ち着いて下さい。まずは容態はいかがですか」
私は布団の中で、パジャマをめくって体を確認した。
2層での死闘。無理なスキル行使。内側から砕けていく骨の音、焼き切れるような血管の痛み。あの、おぞましいほどの自壊の感覚。
全てこの肌が、この体が、確かに覚えている。
だというのに。
私の体には、擦り傷一つなかった。それどころか疲労すら嘘のように消え去り、むしろ力がみなぎっている。
……どういう、いや、一つしかない。
「……先輩が、私を助けてくれたんですね」
「お体がご無事なようで何よりです。何か召し上がれそうですか」
「いいえ、大丈夫です。それよりパパは?」
「ご主人様はお仕事中になります。お呼びになりますか」
壁に備え付けられた時計を確認する。
夕食の時間にほど近い。今日は無理そうだ。
「必要ありません。私は元気だとだけ伝えてください」
「かしこまりました」
佐藤さんはそう一礼し、テーブルに置かれた水差しを持って部屋から出ていった。
……私はパジャマから私服に着替え、窓から庭に降り立つ。
無駄に広い敷地を越え、広尾の街を軽く歩いた。
カフェのテラスから響く笑い声、ショーウィンドウに映る恋人たち、母親のそばを駆け抜けていく幼子。国籍も様々な人々が当たり前のように行き交う街並みは、どこまでも平穏だった。
……子供の頃と大分変わった。
ダンジョン産の物資を用いて、より便利に、そして最先端に進化している。
昔を懐かしむ人には悪いが、私はそれが決して悪いことだとは思っていない。
……人が人であることに、何も変わりはないから。
そうして30分ほど歩いた時には、もう目的地に着いてしまった。
目黒区三田。閑静な住宅地に建てられた普通の一軒家。
もう少し街を見て回りたい気もしたが、私は迷いなくインターホンを押した。
「――あれから丸一日眠ってたってどういうことっスか」
「知るか」
そう素っ気なく、一愛先輩はキャベツを千切りにしながら口にした。
本当に全く気にしていない様子に、私は少し頬を膨らませる。
「起こしてくれても良かったんじゃないスか? ウチが知らない間になんかとんでもないことになってましたし」
私はスマホの画面を見せつけるように突き出した。
「見てくださいこれ! いつの間にかウチのチャンネル登録者数が100万越えてるんスけど! しかもこれ、あの、あれ、調べてみたら、な、なんかウチのファンクラブまでできてますし!」
「だから知るか」
チャンネル登録者数は……まだいい。
ファンクラブも……まぁ許容範囲内だ。
だが、いくら何でもペースが早すぎる。
……せめて自覚できるだけの時間があれば。
そうすれば、心の余裕も少しはあったかもしれないのに。
そういえばネットの反応はどうなったかなぁ、と軽い気持ちで開いてみたらこうなっていた私の気持ちを察してほしい。
「まぁ逆に良かっただろ。お前そういうの気にして他に手がつかなくなりそうだし」
「そ、そうっスけど……でもユニコーンの乙女とか、実は戦闘狂とか、知らない間に勝手に二つ名作られてたら嫌っスよ!」
「事実だろ」
「事実じゃないっス!」
……やはり一愛先輩には人の心がわからない。
私はソファでふて寝することにした。
お気に入りのクッションを抱き枕に、横になる。もうこれがないと落ち着かない体にされてしまった。
「ただいまー、お、この靴は色蓮ちゃん!」
「おかえりー、唯ちゃん! お邪魔してますよ!」
「全然いいよいいよ、むしろ毎日でもきてほしい! あ、それと配信見たよ、凄かったね! 相変わらず兄ちゃんは――」
吹奏楽の部活帰りなのに、全く疲れた様子を見せずに元気に喋りかけてくる。
この子を見ていると、一愛先輩が本当にしたいことが透けて見えてくる。
……だから私は、本当は……。
いや、止めよう。
先輩は私を手伝ってくれている。
今はまだ、それに甘えないと私の成長はあり得ない。
「あ、兄ちゃんトンカツ作ってる。それ一昨日買ったちょっと良いお肉じゃん、冷凍してたやつ。なになに、色蓮ちゃんきたから奮発したの? それとも色蓮ちゃんの為に買ってたのぉ?」
「うるさい」
一愛先輩がぶっきらぼうにそう返した。
簡素過ぎる一言だが、唯ちゃんと話す先輩はどこか言葉に温度を感じる。
それに少しだけ寂しさを覚えながら、私はわざとイタズラっぽい笑みを浮かべた。
「なんスか先輩、もしかして本当にウチの為のトンカツなんスか? やだなぁもう、そういうのはきちんと言葉にしてくれないと伝わらないっスよ」
「黙れ」
「ウチに対する当たり厳しくないっスか⁉」
……まぁ、本当に私の為ではないだろう。今日は29の日だし。
そういうの、実は気にするタイプなのを最近知った。
夕食は先輩の家で食べることをパパに連絡してから、私は先輩達と食卓を囲んだ。
パパと一緒に夕食を食べれる日はもちろん家に帰るが、そうでない日はこうしてお邪魔することも多い。
味ではなくて、料理の温かさがまるで違うから。
「やっぱトンカツのソースは中濃っスよねぇ。この庶民的な味付けがチープでたまらないんスよ」
「馬鹿にしてんのかお前。それに俺はウスター派だ」
「ええ⁉ トンカツにウスターっスか⁉ 唯ちゃんは?」
「私塩派~」
「し、渋いっスね。いいお肉ならそれもありっスけど、これに塩か……」
「だから馬鹿にしてんのかお前」
試しに塩をかけて……うん、いける。奮発したというのは本当のようだ。
ウスターは……いいや。
そうしてテレビを見て談笑しながら食べていると、一愛先輩が珍しく私をチラチラと見ているのに気付いた。
いや、本当に珍しい。もしかして初かもしれない。
「なんスか先輩。あ、今日の夕飯も美味しいっスよ」
「そりゃどうも。皿洗いは手伝え。いや、そうじゃなくてだな……お前、平気か?」
「はぁ?」
一瞬何を言いたいのか分からなかったが、すぐに察することができた。
「ダンジョンでのことっスか? それなら大丈夫っスよ。先輩のおかげでウチは五体満足ですし、すこぶる快調っス。あの時は少し感情的になりましたけど、キャップは普通に生きてるんスよね?」
「ああ、お前と会った個体は確かに消えたが、その記憶は本体に引き継がれる、はずだ。俺もユニコーンの生態にそこまで詳しいわけじゃないから、確実とは言えないが」
「別にいいっスよ、それで。ウチだって探索者なんスから、割り切るところは割り切れます」
それより先輩が確実とは言えない、と言ったことに驚いた。
ダンジョンに関することなら何でも知っていると思っていたが、そうではなかったらしい。
……世界一位の先輩ですら知らないことが、まだある世界。
心の奥底に芽生えた怯えを振り払うように、私は笑みを浮かべた。
「それより、また明日からダンジョンに潜るっスよ。次は3層でいいんスよね?」
「レベルはいくつになった」
「あ」
「……確認しろ」
先輩が呆れたように嘆息する。いじられないのが逆につらい。
そして素で噴出した唯ちゃんの反応が一番つらい。
「え、えっと、レベルは39になってます。二層のレベルキャップは40ですから、三層に降りるのが自然じゃないかと」
「……そうだな。三層にするか」
「今、兄ちゃん四層もいいなとか思ったでしょ」
「うぇ⁉」
「……思ってない」
……いや、思ってた。絶対思ってた。
成長の為の無理や無茶は望むところだが、無謀なのはさすがに止めてほしい。
19時になると和やかなバラエティ番組が途切れ、次の瞬間には官邸の会見場が画面を占拠した。
……異常領域対策本部:臨時記者会見。
画面のテロップにそう躍り出た文字を見て、少しだけ胸をざわつかせる。
その胸のざわめきが収まらないまま画面を食い入るように見ていると、決定的な文字が視界に入ってきた。
幕僚長が発表を行う演台の札には、こう書かれている。
『「大規模ダンジョン災害時」における国民保護ガイドラインについて』
ここまでお読み頂き誠にありがとう御座います。ここで一章完結となります。続きが気になりましたらブクマ&評価をして頂けたら幸いです。
また、あと数話ですがストックが切れるまでは毎日更新致します。それ以降は月金の週2回更新を予定しております。
今後ともよろしくお願いいたします。




