熱情
二階の薄汚いタイル張りのユニットバスルームで意気軒昂と身体を洗っていると、ペニスに何故だか熱のようなものがじんわりと溜まってきた。性的快感とは微妙に違う、あたかも大勢の人間に一斉に注視されているかのような緊張したむず痒さ。それについての感慨を独白する間もなく、すぐさま身体は次のステップに入った。全ての筋繊維が、ペニスの方へ向かおうとする猛烈な意志を示し始めたのだ。ペニスを中心として全身が引き絞られていく。まるで高校の物理の授業で学習した電位の低い点に蝟集しようとする正電荷たちのように、全身の細胞が振る舞う。ペニスという陥没地帯に全てが吸い込まれようとしている。
そんなわけで、俺は金縛り状態となった。泡だらけでシャワーを浴び続けながら、空中に鈍い熱で釘付けにされたペニスを焦点として。「おい、だれか助けてくれ!」「おい、だれか助けてくれないか!」「だれか?」その間にも身体は締め付けられるかのようにペニスに向かってますます固くなっていく(勃起しているわけではない)。下半身はもはや全く動かず、腕をぷるぷると震わせてみるのが精一杯だ。シャワーが当たっていないお尻の部分が寒くなってきた。
幸いシャンプーは既に洗い落としてあったため泡に目を潰されることは避けられたが、身体の向きを変えられず放置されたお尻がすごく寒くなってきて、この状況は俺にとってますます腹立たしく思えた。これはまったく驚くべき事態だと云わざるをえない。こんな無法がまかり通って良いものだろうか。
俺は冷静に原因を分析してみることにした。まず、俺に持病と呼ばれるようなものはない。考えられるのは脳に関係する類いの急性疾患だが、そこそこ時間が経過した今も症状が一向に進展せず、ペニスを焦点とする金縛りのほかにはいかなる不具合も(尻が寒くなってきてはいるが)ないことを鑑みると、そういうわけでもなさそうだ。とすれば、やはりこれは性的欲求不満に端を発する神経症である可能性が高い。確かに、俺の性生活は無に等しかった。
俺から見て右斜め前方上部、浴槽に面したすぐ近くの窓が、突然がらりと開いた。冬の夜気が入ってきてシャワーの音が軽くなる、何よりもますます寒い。俺が癇癪を起こしかけていると、ぬうっと窓から何か白い棒のようなものが差し込まれてきた。よく見るとそれは人の腕だった。萎びた、血色の悪い、幼少期の緑がかった鼻汁の記憶を呼び起こすような腕。そんな貧相なもので、いったい何をしようというのか。
シャワーは流れ続けている。泡はあらかた落ちた。俺は相変わらず動けぬまま棒立ちで、「おい、なんだ?お前?」と聞いてみたが、何の反応も返ってこない。剥げまくっていて気がつかなかったが、よく見るとそいつの指には五本とも赤のネイルがしてあった。ということは、女性なのだろうか。しかし、そもそも人間ではなく病原菌の印象だった。物凄く気持ち悪い。こいつの腕は、見てるだけで鼻の奥がツンと痛くなってくる、綿棒を鼻の奥に突っ込まれる場面を連想するからだ。血の気が一切ないのにも関わらず、何故か血管が脈々としかし貧弱そうに浮き立っている。中身には鼻汁が詰まっているみたいだ。
そいつを観察していると、悪心と共に俺の緊張質と化したペニスはますます緊張した。漏らしたお襁褓を身につけた時のような、沈澱した熱を増して。当初まだなんらかの性的な予兆として受け止める余地のあったこの身体の変調は、こいつの出現によって、単なる不愉快な澱みとして同定されてしまった。
驚くことに、その腕は窓越しに片手で出来るあらゆる性的な隠喩を突如として開始した。指で輪っかを作り上下に扱く素振りに始まり、優しく執拗なペッティング、指を二本立てて前後にゆっくり動かし、中指を挿入、前立腺を刺激、そして、出てきた精液を手に受け止め、飲精……
それは、その動きの見かけ上の淫靡さにも関わらず少しも性欲を掻き立てられない、ひたすらに悍ましいものだった。途中何度も目を瞑り頭を背けようとしたが、金縛りと悍ましいもの特有の圧力で何故かそれはできない。そうして、次々と繰り出される素晴らしい暗示の連続を俺は延々見るはめになった。浴槽の隣、いまの俺から見て左斜め前方にこの部屋のトイレはあった。左の視界にトイレ、右の視界に性的な挑発、掃除されてないタイルの黒や茶のカビたちが演出する汚穢に塗れた雰囲気と相まって、それはあたかも公衆便所における売買春のような徹底的に卑猥な情景を連想させるパノラマだった、しかし、ひとたびその腕の質感に注意を向ければ、連想の鎖はすぐに断ち切られ、イマジネーションは細菌まみれで病室のベッドに縛りつけられ嘔吐しながらひたすらに踠き苛まれる苦しみの方へと圧倒的な強制力で動員されるのだった。全てが病的な粘膜に包まれている。正面から打ち付けるシャワーだけが、辛うじて換気孔を穿ち続けてくれる。
片腕で出来るジェスチャーのレパートリーなど当然あっという間に底をつき、既存パターンの無気力な順列組み合わせに早くも堕しつつあるその演技は、しかし少しもその勢いを落とさず、むしろますます活気付くようであった。まるで倦怠な繰り返しの積み重ねがその極点においてどこか大いなる希望へと突き抜けるという確信を持っているかのように。手コキ、フェラチオ、亀頭愛撫、飲精、フェラチオ、肛門指姦、フェラチオ、飲精、尿道姦……
シャワーを伴奏に、黒ずんだタイルと窓から覗くちゃちな夜景を背に、操作を一段ずつ着実に積み上げていく病気みたいな腕。俺のペニスに宿った不健康な熱は、その動きに確かに呼応して膨らんでいくようだった。俺は悟った。間違いなく、こいつは俺をある種の絶頂点に導こうとしている。それも、性感とは遠く隔たった、粘液質の陰惨な得体のしれない回路を通って……
俺のペニスは、全くもって萎んでいた。しかし、その腕の弛まぬ労働によって膨らまされたペニスの熱が重量に転化していき、俺のペニスは次第に厚ぼったく腫れてきている。そんな気がした。雄々しい勃起とは全く縁戚関係にない、水膨れ、虫刺され。そのような種の病的な膨張状態にあるペニスも、勃起に対して射精が位置するような解放を期待し得るのだろうか?外気との往還は、だいぶ低い室温で平衡状態に達したようだ。シャワーの熱い蒸気がどんどん窓から逃げていく。腕はそのもはや魔術的ともいえるエロティックな動きで、俺のペニスに病的な暗示を与え続けていた。ペニスはどんどん卑しく腫れていく。それが極点に達したとき、尿道口から精液の代わりに出てくるのは、膿、皮脂、角質、リンパ液、そして名の知れない小虫たちの大量の卵……
そんなCatastrophicなイメージが脳裏をよぎり、俺はきちがいのように叫んで叫んで叫びまくった。全身に無闇に力を入れて、金縛りから抜け出そうとした。そんな俺を嘲笑うかのような、金玉を弄ぶ身振り。声はどこにも届かず、身体は動かないまま。超常現象の中にある者には、いかなる抵抗権も与えられないようだ。
粗悪な絶頂は間違いなく近づいてきていた。このまま、この腕に導かれるままに絶頂して、俺は、見知らぬ残酷な体液をペニスから絞り出されて、そのまま、垢まみれの浴槽に倒れ込んで、何十年も蹲って過ごすのだろう。俺の見知らぬ残酷な体液、その組成は、俺の艶めく記憶や、希望に満ちた未来予想、その間を繋ぐために学習されたあらゆる有益な情報たちで、それら全てが邪悪な意志によってグロテスクな捻転を起こし、ペニスの先から、痰壺に垂らすかのような惨めさで流れ出し、やがて排水口に吸い込まれ渦を巻いて消えてゆく。俺は何もできないまま、からからになって、うつむいて、流れ去ったものへの哀悼のみで構成された余生を送るだろう。もう二度と立ち上がることはないだろう。俺はいきなり現れたこの病気まみれの腕が憎いし、突然自然法則を捻じ曲げてこの腕の存在を了承した世界が憎いし、この汚らしいユニットバスルームが憎くて、全てを呪い殺したい気持ちになった。気がピンと立って、身体に当たるシャワーの水滴が刺々しく感じられたが、ペニスは相変わらず深海に碇を下されたみたいな沈殿を示しているし、病的な熱は膨らむばかりで、身体は一向に動かず、調子に乗りやがって、その時閃光のように煌めいたのは、女の裸、俺が今までに出会った全ての女、アニメの女、ポルノ、様々なメディアの、あらゆるシチュエーション、属性、五感それぞれに対する刺激で、俺は乏しい性知識を持てる限り総動員して、記憶の中のあらゆるエロティックな瞬間から純化して抽出した要素たちを用いて、あらゆる性倒錯、官能性、虐げられる素体たち(もちろん、ここで女性が虐げられるのは妄想における嗜虐性の記号的な反映に過ぎず、そんな状況を現実に一般化するつもりは毛頭ないし、妄想の中では女性たちが虐げることもある、バランスを取るかのように)、欲情を補助する性的な内装、色彩感覚、全てが完璧に構成された、完璧な欲情に足る楽園、それを脳裏に造り上げて、俺はペニスを、勇ましく勃起させた。憤怒に燃え立ち、復讐に向かう巨人を焚き付けるかのように。
鎖を引きちぎるヘラクレスのように、俺は金縛りの中を熱情に任すまま強行軍して、右手をペニスにつけ、滾るような自慰を開始した。火山の噴火のような射精を期待して、正なる生命力を打ち上げて、弱りきった粘膜状のこの現実を焼き尽くすために。救いがたく蝕まれた鼻汁色の片腕の暗く貧しい性的隠喩と、俺の身体的嗜好に裏打ちされた豊麗な万華鏡。どちらの喚起力がより強いか、それは明らかだった。組み合わせという同じ手続きで勝負をする場合、決着をつけるのはいつも根拠の有無だ。水膨れのような無気力な腫れを打ち消すように、俺のペニスに血液が充満し、いま、精液たちが駆け登ってくる、全ての惰弱と瘴魔を置き去りにして、光の速度で、さようなら────
窓を閉め切ってシャワーを浴び続けながら俺は、蒸発してきらきらと輝く健康な精液たちで満たされた空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。