8 旦那さまとの誓約ごと(1章・完)
いつのまにか聖堂の中からは、人の姿もほとんど消えていた。
会衆席はほとんど無人の状態で、少し離れた場所には神父がへたりこみ、入口の方に腰が抜けたらしき数十人ほどが残っているだけだ。
血まみれの婚礼衣装で現れた花嫁が、そんなにも恐ろしかったのだろうか。秘密裏の話をするには都合が良いが、アリシアは少々心外に思う。
(あるいは彼らが恐れているのは、血まみれの花嫁ではなく……)
アリシアが見据えた先のフェリクスは、こんな風に囁いた。
「お前、本当に未来を見る力があるのか?」
「!」
目を見開いたアリシアに、フェリクスはますます面白そうなまなざしを向ける。
「やはりどうせ選ぶのなら、妹などよりもお前の方に価値があったのは間違いなかったな。シェルハラード国の、神秘の王女」
(いまや迷信とされる力の存在を、この男は信じる気になったんだわ。そこに興味を示されているようね、好都合……)
けれどもアリシアはこの瞬間から、フェリクスに隠し事をしなければならないことが確定した。
『アリシア。あなたの未来視の力には、制約があるの。殺されかけた状況で自死を選ばなくてはならないことの他に、もうひとつ』
母が教えてくれたことを、もちろん忘れているはずがない。
『――あなたが未来を見ることが出来るのは、生涯に三回だけ』
つまりはアリシアは、あと二回しか未来を見ることが出来ないのだ。
(彼が私に興味を寄せたのは、この力があるから。……それが残りたったの二回しか使えないことを知られ、ましてや使い果たした暁には、私の利用価値は一切なくなる)
アリシアが森で襲われて死に、ティーナが嫁いだ未来では、ティーナはフェリクスによって監禁状態だったと言われていた。
無価値になったアリシアが辿る運命は、それより悲惨なのは間違いない。
(回数制限を誤魔化す唯一の方法は、『力を使っていない状態でも、未来が見えたように振る舞う』こと。私が持つすべての知識と技術を使って……その上で、私はこの国を利用して、王女としてなすべきことを果たすの)
ゆっくりと目を閉じて、自身に言い聞かせた。
(まずは、どんな手を使ってもあの叔父さまを玉座から引き摺り下ろし、お父さまの国を取り戻す)
国のあちこちに協力者を得るために、慈善活動でほうぼうを歩いた。
妹のティーナの功績にされていたとしても、実際に民と関わったのはアリシアだ。その人たちはアリシアに、いつでも恩を返すと約束してくれていた。
(最後に必要なのは、強大な力を持つ国外の協力者だった。いろんな準備をしていたけれど、『夫』がそうなってくれるのが一番良いわ)
アリシアはゆっくりと目を開き、フェリクスを見上げる。
「約束してくださいますか?」
「約束?」
「私に協力してくださると。……でなければ、これ以上込み入ったお話をすることは出来ません」
アリシアがはっきりそう告げると、フェリクスはふっと笑った。
聖堂のステンドグラス越しに降り注ぐ陽光が、フェリクスの瞳に宿る薄い灰色の色彩を、ますます透き通らせている。
「そんな約束よりも先に、交わさなければならない誓約があるだろう」
「何を……」
上を向かされていたアリシアのくちびるに、フェリクスのくちびるが重なった。
「――――……」
アリシアは思わず息を呑む。
交わされたのは、とても柔らかな口付けだ。
(婚姻のための、誓いのキス……)
アリシアを花嫁として迎え入れたこの男は、冷酷な人物だと聞いている。
力が消えたことが知られれば、アリシアだって殺されてもおかしくない。
(けれど、怯む気は無いわ)
アリシアは、フェリクスがくちびるを離したと同時に手を伸ばし、背伸びをした。
「!」
そうして自分からも彼に口付け、すぐに離して間近で見上げる。
「ごめんなさい。旦那さま」
自分のくちびるをぐっと手の甲で拭い、挑むようににこりと微笑んだ。
「私のくちびるを染めているのは、口紅ではなく血だとお伝えすることを、忘れていました」
「――――っ、は」
上機嫌そうに笑った彼の双眸には、アリシアを射抜くような冷たさが滲んでいる。彼はそのままアリシアの腰を抱き寄せると、聖堂の隅で怯えている国賓たちに宣言した。
「これをもって、アリシア・メイ・ローデンヴァルトは我が花嫁となった。妃アリシアに、祝福を」
「っ、あ……」
引き攣った顔をした神父が、どうにか声を絞り出す。
「い、いまこのとき、我々の目前に新たなる歴史が開かれました。この結婚が両国の光となることを祈り、王太子と妃に祝福を!」
「……祝福を……!」
無理やり絞り出された歓声の中、アリシアはフェリクスの横顔を見上げる。
(……私がこの男に殺されてしまう前に。一刻も早く協力関係を築き、叔父さまから王の座を、奪還してみせるわ)
聖堂には祝福の鐘が鳴り響く。
(神秘と言われるこの血を、どれだけ流しても)
アリシアはその鐘の音を聴きながら、自らの夫となった美しい王太子を見詰めたのだった。
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第1章・完
第2章・「初めての一夜」に続く
これにて第1章はお終いです!
次章は、新婚夫婦ふたりの初めての夜のお話スタートです。しばらく2人一緒の回が続きます!明日の朝6時に更新します。
本作、異世界恋愛のランキング2位でした!
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