56 兄のような
「体の自由を奪われても、どんな目に遭っても、絶対に折れることはないわ。あなたが国を滅ぼしたいと願うなら、それを阻む私を殺すしかない」
「……っ」
シオドアの首筋の脈打つ場所に、アリシアは刃の腹を当てた。
「あの国を守るためなら、あなたを殺す覚悟だってある」
「――――……」
ぬかるんだ地面から見上げてくるシオドアが、アリシアを見て目を眇める。
僅かに弱まり始めた雨の中、シオドアはそのくちびるに、微笑みを浮かべてこう言った。
「私がお傍を離れてから、随分とお強くなられたのですね。アリシアさま」
「……!」
その声の響きは、アリシアが知るかつてのシオドアとなんら変わらない、やさしいものだ。
「もっとも。あの男の犬に成り下がり、成長をお手伝いすることの出来なかった私が言うのは、おこがましい話ですが」
「……シオドア……」
アリシアは眉根を寄せ、そっと首を横に振った。
「私の味方を排除することは、叔父さまの目的だったのだもの。あなたが気に病む必要なんて、どこにもない」
「そのように、寛大なことを仰らないでください」
シオドアは、仕方のない子供を見守るような笑みを浮かべる。
「……私はあのとき、亡き国王ご夫妻の願いのために、あの男の騎士になると決めました。国を滅ぼすことになろうとも、国民が幸せであれば構わないのだと……」
雨に掻き消されそうなシオドアの声が、わずかに震えた。
「ですがそれは。自身を正当化する言い訳であったに過ぎないと、今なら分かります」
「……シオドア」
その瞼が、ゆっくりと閉じられた。
「私が選んだのは、ただの復讐です。ご夫妻の願いであれば、どんな手段を使っても果たす必要があるのだと……」
「…………」
「その手段、あの男を殺して国を滅ぼすことこそが、自身の最大の目的だったというのに――ですが、おふたりの血を引く娘であるあなたが、こうして立派に成長なさった上、未来視の力まで得て『国を守る』と仰った」
自らの歪みを認めて笑うシオドアの表情には、自嘲と諦観が混ざっていた。
「……あなたの存在と志を前にしては、私の言い訳などは、詭弁ですね」
「…………」
アリシアは、シオドアの首筋に突き付けた剣の角度を変える。
「私はあなたを殺す覚悟があるわ。シオドア」
「……ええ。アリシアさま」
彼がゆっくりと目を開けば、青空の色をした双眸が見えた。
「あなたの手に掛かるのでしたら、本望です。あの男の犬である私を、どうかお望みのまま――」
アリシアは静かに目を細め、一度シオドアの首筋から剣を離すと、突き立てるような垂直の形にそれを構えた。
(私の騎士になるはずだった人。……まるで、本当の兄のような……)
彼の喉笛に狙いを定め、剣先を定める。
シオドアは、その瞬間ですらも微笑んでいた。彼が再び目を閉じたのを受けて、アリシアは剣を持ち上げる。
そして勢いをつけ、一気に剣尖を真下へと下ろした。
「隊長!!」
「――――……」
再び雷鳴が鳴り響く。
次の瞬間、アリシアの構えた剣の先は、シオドアの喉を裂く前にぴたりと止まっていた。
「……アリシアさま……?」
「…………」
寸でのところで止められた剣は、シオドアの皮膚へ触れている。
薄く傷を付けられたその皮膚から、赤い雫が一粒溢れた。アリシアはその血を眺めながら、シオドアに向けて告げる。
「叔父さまの犬だった騎士のあなたは、ここでいま私が殺したわ」
「……!」
シオドアの双眸が、信じられないものを見るかのように見開かれた。
「あの日、お父さまとお母さまを守れなかったシオドアも。それからの日々を、叔父さまのもとで生きてきたシオドアも。……全部、ぜんぶを私が殺めたの」
「……何を……」
「だから、シオドア」
彼の首筋を伝った血が、雨によって洗い流されてゆく。
「あなたはもう、復讐も贖罪も果たさなくていい」
「…………!」
シオドアの瞳が、知らない言葉を聞かされたかのように大きく揺れた。
「あなたがそれでもなお、私の道を阻むと言うのなら、そのときは本当にあなたを殺すわ」
「……アリシアさま」
アリシアはシオドアから剣を離すと、立ち上がって一歩後ろに退く。
「だからお願い。シオドア」
小さな頃、シオドアはいつかアリシアを守る騎士になるのだと、父や母から聞かされていた。
彼を本当の兄のように慕いながらも、その日が楽しみで仕方がなかったのだ。アリシアは、かつてを思い出しながら口にする。
「今度こそ、私の騎士になって」
ひどい我が儘だと分かっていながら、アリシアは祈りを口にする。
「――お父さまとお母さまに捧げた命懸けの誓いを、どうか私に差し出して」
「…………!」
シオドアの手が、彼自身の目元を覆った。
「……はは」
雨の雫を避けるようにも、何かを隠すような仕草にも見える。
シオドアは、アリシアの聞いたことがない小さな子供のような声音で、ぽつりとこう呟くのだ。
「あの日、たとえ殺されることになろうとも、最初からあなたのもとを選んでおけばよかった」
「……シオドア……」
そしてシオドアは、ゆっくりと身を起こそうとした。
少し離れた場所で観察しているフェリクスが、冷静な言葉を投げてくる。
「アリシア。油断をするなよ」
弾き飛ばしたシオドアの剣は、そう遠いところに落ちている訳ではない。フェリクスは静かなまなざしを、起き上がったシオドアに向けていた。
「その男にとって、いまがお前を討てる最後の好機だ」
「分かっているわ。だけど、私はシオドアを信じたい」
アリシアは右手に持った剣先を下げたまま、シオドアを見詰めた。
「私の、兄のような存在だった騎士だもの……」
「――――……」




