47 彼女の名は
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山の中に降りしきるその雨は、シオドアが纏うローブを冷たく濡らしていた。
金色をしたシオドアの髪も、濡れて額に張り付いている。
しかし、もはや雨避けの意味もないフードを被り続けているのは、シェルハラード国の騎士服を覆うためではない。
「隊長、伝令です!」
同じく外套を纏ったシオドアの部下が、泥水を跳ねさせながら駆け寄ってきた。
「王都の方角より、十三台の馬車が現れました。レウリア国の騎士たちが、報せを受けて駆け付けている模様!」
「ありがとう。その中に、他と造りの違う馬車は?」
「一台、四頭立ての一際大きな馬車が存在します。扉に王室の紋様が描かれていることから、王族専用の馬車ではないかと」
(……やはり、あなたがいらっしゃったのですね)
分かりきっていたその報せに、シオドアは目を細めた。
(罠だとも、知らずに)
過日のことだ。
シェルハラード国の王城で、アリシアの叔父である現王は笑った。
『我が望みを叶える妙案が、他にもあるのだろう? ――シオドア』
『……もちろんです。陛下』
シオドアはこの王の元で、いくつもの戦いを経験してきたのだ。
信頼を得るために、長い年数を費やしてきた。だからこそ、澱みなく答える。
『かの国で行われる妃冠の儀。アリシアさまのために行われる儀式に、陛下の名代として私が参列いたしましょう。そして、その訪問を利用して……』
シオドアは薄暗い笑みを浮かべ、主君に告げた。
『――アリシアさまを、殺害できます』
『……なに?』
向けられたのは、意味が分からないとでも言いたげな表情だ。
『あれは、レウリア国との同盟を結ぶべく嫁がせたのだ。こんなにも早く殺してどうする?』
『ただ殺めるのではありません。あくまで事故や、かの国の賊の仕業に見せかけて命を奪うのです』
『……ほう』
シオドアの言わんとすることを理解してか、王は僅かに笑みを浮かべる。
『なるほどな。そうすれば「折角くれてやった王女を死なせた」として、レウリアと対立する正当な理由が得られると?』
『すべての周辺国を味方に付けることが出来れば、レウリアなど恐るるに足らず。何よりも陛下のお傍には、このシオドアがおります』
シオドアは玉座に向かって膝を突き、頭を下げた。
『万が一失敗した暁には、私めの独断による凶行とお切り捨てください』
そしてシオドアは今日のために、いくつもの情報を集めてきたのだ。
(レウリアの内情を探りながら、幾多の策を講じてきた。……だが、ここで『隧道』についての噂を得ることが出来たのは、僥倖だったと言えるな)
それは、シェルハラード国とレウリア国を繋ぐ道の途中にある、とある区画のことである。
(ひとりの女性が、この隧道が崩落間近だという話を方々に広めた。彼女は周囲の村に危険を知らせ、絶対に近付かないようにとの警告を周知したという)
シオドアの耳に入ってきたのは、こんな情報だ。
(その上、隧道が使えない期間の損害を埋めるための知恵まで授けたと……。その際に使用した果物は、我が国の王女ティーナさまが、姉君に贈ったものとまったく同じ。村民には身分を隠しているようだが……)
シオドアは真っ暗な雨の中、一歩ずつ歩を進めてゆく。
(――その名は、アリシア)
脳裏に浮かぶのは、このレウリア国の王太子妃となった彼女のことだ。
「シオドア隊長。『敵』は今回も、隊長の想定なさった時間に現れましたね」
「……ああ。そうだね」
「いつも通りのご慧眼、感服いたします! レウリア国の騎士も、村人を装った我々の話をまんまと信じ込み、王都へと応援要請に向かいましたし……」
「はは」
部下に曖昧な微笑みを返しながら、シオドアはゆっくり歩き続けた。
(この辺りを警備する騎士は、王都への伝令を除いて全員捕らえた。――当然だ、隧道の崩落から命からがら逃げてきた民のふりをされては、志の高い騎士ほど惑わされる)
シオドアはこの動きを取るために、妃冠の儀の前夜祭が行われているレウリア王城を、秘密裏に抜け出したのだ。
(アリシアさま)
幼い頃、常に傍にいた少女の姿を思い出して、シオドアは雨の中で息を吐いた。
(あなたは先王ご夫妻が亡き後も、城を抜け出しては民のために尽力なさっていた。――気に掛けていた隧道が崩落、村人に被害ありとの報せを受けて、あなたが王城に留まっているはずもない)
そして間違いなく、こんな雨の夜に遣わされる騎士などは、限られてくるものだ。
「この雨天で馬車が到着するまでは、まだ少し時間があるはずだ――しかし総員、戦闘の準備を怠らないように」
雨避けの外套はいつでも脱げるよう、胸前の留め具を開けた。
山中に陣形を広げて待機させた部下たちのことを、シオドアは振り返る。
「我が国の平和の、礎のために……」
この辺りは、ろくに木こりの手も入っていないのだろう。あちこちに倒木が転がっており、足場が悪いことこの上なかった。
しかし、シオドアが背にした隧道の穴倉は、決して崩落などしていない。
まるで巨大な化け物が、獲物を待ち構えているかのように、その絶壁で大きく口を開けていた。
「――アリシアをここで、殺してしまおう」
「はっ、シオドア隊長!!」
部下たちのそんな返事に微笑んで、シオドアは頷く。
「とはいえ、彼女を手に掛けるのは私の役目だ。いいね?」
「承知しております。我々はアリシアの護衛と戦闘し、隊長の援護を!」
「山中に散らばった別働隊が、アリシアの馬車の通過を待ってから、後続の馬車と騎士どもを排除します」
「ああ、その後も普段通りに頼んだよ。僅かな護衛さえ剥がしてしまえば、この国で他にアリシアの剣となる味方は居ない」
シオドアはそんな指示を出しながら、内心で僅かに気になっていることを思い浮かべる。
(……懸念があるとすれば、王太子フェリクスのあの振る舞い。まるで本当に、アリシアさまへの心があるかのような物言いだったが……)
そんなことを考えた、直後だった。
「……この音」
雨に紛れて、水を散らすような足音が聞こえてくる。シオドアから遅れてすぐに、部下たちも異変に気が付いたようだ。
「蹄の音……! 馬鹿な、もう馬車がここまで来たのか!?」
「違う」
「っ、隊長?」
普段よりも強いシオドアの語気に、部下がかすかな戸惑いを見せる。シオドアはそんなことには構わずに、山道の奥を凝視していた。
(まさか……)
迫って来ていたのは、馬車などではない。
「お、おい、あれ!」
「なんだ!? 見張りや伝令は一体何をしていた!!」
(……あれは、漆黒の軍馬……)
彼女が乗っているのは、山の中に溶け込む色合いの馬だった。
それからシオドアたち同様に、黒のローブを纏っている。夜の雨の中、数多くの馬車に紛れられてしまえば、偵察とて見落としてもおかしくはない。
けれどもこの場所に飛び込んできた女性の、大きく靡く朝焼け色の髪だけは、松明の僅かな灯りにすら鮮やかに輝いていた。
「……っ」
思わず息を呑んだシオドアの目前で、彼女が手綱を引き絞る。
「――さあ」
高く嘶き、両前脚を大きく掲げるようにのけぞった黒馬の上から、迷いのないまなざしが向けられる。
「会いに来てあげたわよ。シオドア」
「……アリシアさま……」




