43 亡くなった妃
【第7章】
妃冠の儀を明日に控えたレウリア王城では、主に国内の貴族たちが集い、グラスを片手に歓談を行なっていた。
中心となる人物は、王太子フェリクスとその妃アリシアだ。
けれども夜会が始まって一時間後、すっかり疲弊の色を見せたアリシアは、夫を壁際に追い詰めていた。
「新婚の妃をひとり放置して、一体どこに行ってたのよ……!」
「庭で寝ていたが?」
しれっと言い切ったフェリクスが、悪びれずに胸の前で腕を組む。彼の耳に揺れる宝飾は、普段は身につけていないものだ。
今日のフェリクスは白の軍服に手袋を嵌め、体の右半身だけを覆う黒いマントを着用していた。
灰色にほど近い黒髪は整髪剤で固められ、その耳が露わになっている。
この極上の見た目が、会場にいる女性たちの視線を釘付けにしていることくらい、当然フェリクスにも自覚はあるだろう。
「フェリクス……」
すっと指で数字の八を示したアリシアは、髪を左側に結ってふわふわと巻いている。
真珠の粒の髪飾りを散りばめた装いは、片側にマントを付けたフェリクスと並んで立つことを意識したものだ。
しかしフェリクスは夜会が始まって早々、取り囲まれたアリシアの傍をするりと抜けて、あろうことか姿を消したのである。
「その数字はなんだ」
「あなたが居ない間、私に絡んできたご令嬢の数よ」
壁に背を預けているフェリクスに、アリシアはずいっと顔を寄せる。夜会の参加者たちはみな、どこか遠巻きにアリシアたちを見ていた。
「それ以外にも、シェルハラード国に一言物申したい殿方が三人。ティーナではなく私が嫁いで来たことに嫌味を言ったご婦人が五人。フェリクスと私に離縁してもらって、自分の娘を妃につかせたいご夫妻が三組。これみんな、たった一時間での出来事だったのだけれど!?」
「そうか。勝ったか?」
「全員返り討ちにしてやったわ!」
アリシアがふんすと胸を張ると、フェリクスは少し目を伏せる。
「――その場面は見ておきたかった気もするな」
「あなたのそんなに残念そうな顔、初めて見たわね……」
アリシアを遠巻きに見ている人たちの向こう側に、こそこそと気まずそうな様子の面々が見える。
アリシアは、『あなたのような悪女よりも私の方が、フェリクス殿下を支えるのに相応しいわ!』と叫んだ三人のうちひとりの姿を見付け、にこりと微笑んで手を振った。
「それにしてもフェリクス、よく会場に戻ってきたわね」
歩き出したフェリクスについて歩きながら言うと、彼は白いテーブルからグラスを取る。
意外なことにフェリクスは、アリシアの分もグラスを渡してくれた。しゅわしゅわとした金色のお酒は、果汁のように甘いものだ。
「あなたのことだから会の終わりまで、そのまま行方不明かもしれないと覚悟したわ」
「雨が本降りになってきたからな。東屋で寝るのも鬱陶しくなった」
「……そう」
アリシアは手を伸ばし、フェリクスの頬に触れてみる。
「ほっぺた、すごく冷たいわよ。もう六月とはいえ、夜に外で眠るのはやめた方がいいと思うけれど」
「屋内だと目敏い連中に捕まるんだ。今日はお前が暴れたお陰で、俺に寄ってくる虫も少ないが」
「暴れてないから! 人を虫除けにしないでちょうだい」
「それで?」
フェリクスはグラスを傾けながら、少し意地悪なまなざしをこちらに向ける。
「シェルハラード国の素晴らしき騎士であるシオドア殿は、やはり客室でご休息か。夜会の参加を辞退なさるとは、長旅でさぞかしお疲れのようだな」
「そうみたい。ゆっくり休ませてあげないと、可哀想」
もちろん露ほども思ってはいないが、アリシアは肩を竦めてそう返した。
アリシアの推測が間違っていなければ、シオドアは客室で休んでなどいないだろう。恐らくは、フェリクスも似たようなことを考えているはずだ。
(早く行動しておきたいけれど、あとほんの少しだけ待たなくては。分かっているけれど、落ち着かないわね……)
そのときふと、離れた場所から聞こえてくる。
「しかし。フェリクス殿下はお若き頃の陛下に、日に日によく似てきていらっしゃる」
(……随分と、お酒をたくさん召された殿方だわ)
「ご子息に亡き妃殿下の面影がないことを、陛下はどのようにお思いなのか……」
あちらで会話をする男性たちは、思いのほか大きな声になっている自覚がないらしい。
「それはもちろん、安堵なさっているだろうさ」
周囲の誰かが止める前に、ひとりがフェリクスを眺めながら言った。
「寵愛を注いだ妃殿下が、あのように惨殺されて。フェリクス殿下も、その一因なんだぞ?」
(え……)
振り返ったアリシアは、フェリクスを見上げる。
「――――……」
その美しい双眸が、なんの感情も宿さずにアリシアを見据えた。
かと思えばフェリクスは、アリシアの手を取って歩き始める。
「っ、フェリクス?」
「行くぞ」
「行くって、そっちはホールの外でしょ! 一体何処に……」
アリシアのグラスを没収したフェリクスは、通り掛かったテーブルにそれを置く。噂話をしていた男性たちは、事態を察して青褪めた。
けれどもフェリクスはそれに構いもせず、アリシアを連れて、夜会場から続いている中庭へと降りる。
「ねえ、フェリクスってば!」
「面倒ごとが近付いてきた」
「……?」
手を引かれて薄暗い中庭を歩きながら、アリシアはホールを顧みる。そうして煌びやかな光の中に、とある人物の姿を見付けた。
「国王陛下……」
アリシアの脳裏に、つい先ほど耳にしたばかりである、『妃が惨殺された』という言葉が蘇る。