38 変貌
(……この空)
そしてアリシアは、ザカリーに告げた。
「ザカリー。ひとつ、あなたに命じたいことがあるの」
「……?」
怪訝そうな顔をしたザカリーに対して、にこりと微笑む。
「私に従ってもらうわ。……妹を守りたいのであれば、ね」
「――――……」
***
王城での湯浴みを済ませたアリシアは、上品な紺色のドレスに身を包んでいた。
体のラインに沿った細身のシルエットで、縫い付けられたビーズが歩く度に煌めく。
ゆったりと広がる袖口に施された金色の刺繍は、アリシアの手首をいっそう華奢に、それでいて華やかに見せてくれるものだ。
赤紫色の髪は下ろしつつ、頭の左側には真珠の粒を連ねた髪飾りをつけている。
故国にいたころは夜会に参加した経験もなく、これほど美しいドレスに身を包む機会はほとんど無かった。
「挨拶用のドレスと宝飾をありがとう。フェリクス」
アリシアたちがいる部屋は、賓客を迎える間と続きになった控えの部屋だ。衣装を用意してくれた夫に向けて、アリシアはドレスの裾を摘んで広げた。
「どうかしら。変じゃない?」
「変であろうとそうでなかろうと、この後の出来事に影響は無いだろう」
「もう!」
妻にドレスを贈っておいて、あまりにも無関心な言い草だ。それ自体は気にならないものの、長椅子に座っているフェリクスの発言には反論した。
「影響はあるわよ。こちらの装いや振る舞い如何によって、相手への説得力は変わるものでしょう?」
「……」
「ましてやこれから行われるのは、探り合いだもの」
奥にある扉の向こうには、すでに旧知の人物が通されて、アリシアたちが来るのを待っているはずだ。
(正直なところ、明日の妃冠の儀よりも重圧があるわ。彼との駆け引きに失敗すれば……)
「…………」
アリシアの密かな緊張が見抜かれたのだろうか。
溜め息をついたフェリクスに、気怠げな手招きをされた。
「……来い」
「?」
首を傾げて近寄れば、フェリクスがアリシアに手を伸ばす。
そうして彼はその指で、アリシアの髪を梳くように撫でた。
「お前の瞳には、強い力がある」
「……!」
そう言って、髪飾りをつけていない側の横髪を、アリシアの右耳に掛けてくれる。
「交渉ごとの際は、なるべく双眸を見せる髪型にしておけ」
「あり、がとう」
「――これでいい」
少し驚いているアリシアを他所に、フェリクスは納得のいった様子で手を離す。
横髪が邪魔なつもりはなかったのだが、こうすれば確かに視界がより開けたように思えた。
アリシアは照れ隠しをしつつ、フェリクスに尋ねる。
「……さっきよりも可愛い?」
「可愛げは無い」
「もう!!」
生憎ここに鏡はないので、フェリクスの両頬を掴んで瞳を覗き込んだ。灰色の瞳に映った自分の姿を見て、緊張した気配などひとつも無いことを確かめる。
「以前も言った通り。俺はお前とその男との探り合いに、手を貸してやるつもりなどないぞ」
「……分かってる」
アリシアはフェリクスから手を離すと、彼の隣に置かれた椅子に腰を下ろした。
「あなたはそこで、私と彼の再会劇を楽しんでいるといいわ」
「ふ」
意気込んだアリシアを面白そうに眺めたあと、フェリクスが立ち上がった。
「十分に待たせてやっただろう。行くぞ」
「……ええ」
歩き出すフェリクスに従って、控えの部屋にある扉から続いた賓客の間に移る。
賓客の間は、床や柱を大理石で作られた空間だ。謁見の間と近しい造りをしていて、上座には二脚の豪奢な椅子が用意されていた。
赤い絨毯の敷かれた先には、すでにひとりの男が跪いている。
最初にフェリクスが椅子へと座る。アリシアはその隣の椅子について、赤い絨毯の伸びた下段を見下ろした。
フェリクスが、感情の乏しい静かな声で告げる。
「顔を上げられよ」
「は。――この度は、貴国の神聖なる儀式の場に参列する資格を頂戴しましたこと、誠に僥倖に存じます」
男性が静かに居住まいを正す。
鮮やかな青色の双眸が、フェリクスのことを見上げた。
「シェルハラード国、ヒースコート子爵家が当主。シオドア・クリス・ヒースコートと申します」
(シオドア……)
十三年ぶりに姿を見るその騎士は、柔和な微笑みを浮かべている。
柔らかな癖のある金の髪も、少し垂れ目がちでやさしそうな表情も、昔のままだ。
(小さな頃、私とたくさん遊んでくれて、お兄さまみたいな存在だったシオドア。お父さまが殺される直前まで一緒に逃げて、叔父さまが勝利した後は離れ離れになって、噂だけしか耳に入らなくなった……そして)
戦場から流れてきた噂のことを、アリシアは自然と思い出す。
『騎士シオドアは、砦に火を放ったそうだ。惨たらしい光景だったそうだが……無事に、勝ったと』
「アリシア妃殿下」
「!」
シオドアは胸に手を当てて、昔と変わらずにやさしい声で言う。
「あのお小さかった王女殿下が、斯様にご立派な王太子妃として、フェリクス殿下のお隣にいらっしゃる。この光景に、長い時の流れを感じずにはおれません」
鮮やかな青い瞳からは、真意がまったく汲み取れない。
声のやさしさとは違い、その微笑みは、爽やかな顔立ちに貼り付けたかのようだ。
「この度はご結婚、おめでとうございます」
「――――……」
少年だった頃、シオドアがこんな風に笑うことはなかった。
いまはもう、アリシアの知るシオドアではないのだと、その現実が突き付けられているかのようだ。