37 愛玩動物
【6章】
妃冠の儀が行われる前日まで、アリシアは準備に大わらわだった。
数人の騎士たちを伴って、あちこちを駆け回る。婚儀の次に大きな儀式とあっては、歴代の妃も大忙しで過ごしていただろう。
けれどもアリシアが忙しかったのは、儀式に備えた髪や肌の手入れ、賓客を迎える準備のためではない。
「アリシアちゃん!」
隧道近くにある農村で、村人がアリシアに手を振った。
「見てちょうだい、これ! アリシアちゃんに教わった方法で染めてみたら、すごく鮮やかな色になったのよ」
「まあ! 素敵です、とっても綺麗!」
泥だらけで桶を抱えたアリシアは、染め物を汚さないように、少し離れた場所から目を輝かせた。
ティーナから押し付けられた果物のひとつは計画の通り、素晴らしい染料として役に立っている。
他の果物もさまざまなものに転用され、隧道が使えなくて不便を強いられている村人の、新たな収入源となりつつあった。
たとえば、アリシアが先ほどまで土に混ぜ込んでいた桶の中身は、防虫効果のある肥料だ。両親が残してくれた書庫にあった本の知識は、こうしてあちこちで活用出来ている。
「これで隧道の迂回路が整備されれば、荷馬車で王都まで売りに出られるようになりますね」
「何もかもアリシアちゃんのお陰よ。何度も村に来てくれるばかりでなく、その度に隧道の様子を見に行ってくれて……」
「隧道が完全に崩落してしまうと、土砂崩れなどの危険もありますから。次に雨が降ったときは保たないと思うので、くれぐれも近付かないでくださいね」
「ええ、村人同士で声を掛け合っておくわ。こんな学者さんを王城から遣わせてくださるなんて、国王さまと王太子さまには感謝しないとねえ……」
アリシアが王太子妃であることを、村の人たちはまだ知らない。名乗ったところで、こうして農村で泥だらけになりながら動き回っているアリシアを見ても、説得力はないだろう。
騎士を伴って遣わされた学者だと思われているようだが、特に訂正はしていなかった。
「そういえば王都では明日、妃冠の儀があるのよねえ。私たち一般人の目には触れない儀式だけれど、王太子ご夫妻がバルコニーから手を振ってくれるそうだよ」
「……皆さまは明日、王都まで行かれるのですか?」
「隧道が使えなくて遠回りになる分、全員で行くのは難しいけどね。村の代表が何人かで、染め物を売るついでにって話になってるのさ」
女性たちと話しながら、アリシアは桶を抱え直そうとした。
するとそのとき、後ろから無言で近付いて来た男性が、アリシアの桶をひょいと持ち上げる。
「……ありがとう、ザカリー」
「…………」
お礼を言いながらも、アリシアは内心で調子が狂っていた。
(……どうしましょう。偽の情報を持ち帰らせるつもりだったザカリーが、逃げないどころか優しいのよね……)
ザカリーは、ティーナの命令でアリシアを殺しに来たはずの賊だ。
当初の作戦では、このザカリーに偽の情報を教えた上で、ティーナたちの元に持ち帰らせる予定だった。
しかしザカリーは逃げるどころか、アリシアの行動を観察し、見定めようとするそぶりを見せている。今だってアリシアから受け取った桶を、黙々と納屋に運んでいた。
その結果、村人たちからはこんな評価を下されている始末だ。
「アリシアちゃんの連れている色男さんは、働き者だねえ。手枷を付けているのには驚いたけど、あれがシェルハラード国の流行かい」
(いつ逃げ出してくれても構わないから、ザカリーを逃さないようにする枷はあれだけなのよね。私の国の流行が誤解されているわ……)
「あの人、アリシアちゃんの護衛なんだろ?」
「いいえ」
アリシアは両手の汚れをぱんぱんと払いながら、女性の言葉を否定した。
「あの男は、私の愛玩動物です」
「え?」
あまりにも堂々と言い切ったアリシアに、村人たちがおかしな顔をする。
(『ザカリーは、私が気に入って連れ回していた色男。だからこの先も利用価値がある』と叔父さまたちに思わせて、ザカリーが国に戻った後も、すぐには殺されないようにしている訳だけれど……)
「愛玩動物……」
村人が混乱した様子でザカリーを見遣ると、ザカリーはしばしの沈黙のあと、低い声でぼそりと応答する。
「……………………わん」
「…………」
その瞬間、村人たちが少しだけ心配そうな顔でアリシアを見た。
「…………」
このどうしようもない空気を前に、アリシアは慌てて撤退を選ぶ。
「そろそろ王都に戻らないと! 皆さまお邪魔しました。重ねてになりますが、くれぐれも隧道には近付かないでくださいね!」
「あ、ああ。気を付けて、それとこれも持ってお帰り!」
村人たちが籠いっぱいに野菜をくれるが、ザカリーはまたもそれを無言で手にした。
騎士たちが手持ち無沙汰そうに籠を持とうとするものの、ザカリーはそれを無視している。王都に戻る馬車に乗り込んだアリシアは、向かい席にいるザカリーにこう尋ねた。
「――ザカリー。あなた最近、いったい何を考えているの?」
「……」
座席の中央にいるザカリーの左右には、今日も騎士がひとりずつ座る形だ。ザカリーが姿勢を正すと、手枷の鎖が小さく鳴る。
「……何を考えるべきなのか、それを考えている」
低くて重いその声に、アリシアは肩を竦めた。
「随分と、哲学的なことで悩んでいるのね」
「俺は今度こそ見極めて、正しい判断をしなくてはならない」
揺れる馬車の中で、ザカリーは引き続き答えるのだ。
「断片的な情報だけを鵜呑みにして盲信する……そんな過ちを繰り返す訳には、いかないからな」
(……自分が掴まされた情報の真贋を、疑っているという訳ではなさそうね)
何も知らない騎士たちが、戸惑いと疑問のまなざしでザカリーを見ている。
(ザカリーは勘付いているのかもしれないわ。故郷の村を救ったのがティーナではないことや、私が関与したこと……)
その可能性に思い至り、アリシアは息をついた。
(だけど、私に恩義を感じるのは間違いよ)
『悪女と噂されたはずの王女が、実は善行をしていた』だなんて、そんな美談の存在になるつもりはないのだ。
(私はあの国を取り戻すために、あらゆるものを利用するわ。子供の頃に一緒に過ごした騎士と……それから、夫でさえも)
シオドアやフェリクスのことを考えながら、アリシアは窓の外を眺める。