35 倒された王
「何を、仰るのですか?」
「シェルハラード国と同盟を組む目的は、大陸西に進軍するために必要なすべての軍路を、シェルハラード国が押さえているためだ」
ゲラルトの言う通り、叔父は西の諸国と強固な外交関係を築き上げている。
十三年前、アリシアの父が叔父に反乱を起こされた際、助けてくれなかった国々だ。
「西への『所用』が片付けば、同盟の価値もなくなる。そうなれば、其の方を自由の身にしてやっても構わぬ」
「…………」
「三年ほど待て」
アリシアの陣に立った王の駒は、ゲラルトが左手で置いた駒に追い詰められる。
「そうすれば、何処へでも行くが良い」
「……国王陛下は」
アリシアは自らの王駒を逃したあと、ゲラルトの言葉には敢えて答えず、こう尋ねた。
「どうしてフェリクスを、遠ざけておられるのですか?」
「…………」
従者がますます顔色を悪くする。それを単刀直入に聞く人間が、恐らくは他に居ないのだろう。
「あれは私の邪魔になる」
「邪魔とは?」
「一国に、王はふたりも要らぬ」
ゲラルトが獅子の駒を動かし、先ほどの逃げたアリシアの王を再び追い詰める。
(……陛下の獅子が、その位置に動くと……)
内心の考えを顔には出さず、アリシアはゲラルトの言葉に向き合った。
「あれは戦場で多くを殺す。平時であっても他者に興味を示さず、民の悲痛な叫びにも耳を傾けない」
ゲラルトは背凭れに身を預け、疲れたように息を吐く。
先ほどから、ゲラルトが駒を持つのは左手だ。けれどもひとつひとつの些細な動きを見ていると、彼が生来右利きであることは察せられた。
「だが」
ゲラルトの右手は震えていて、その動きもぎこちない。
「――にも拘らず、人の心を惹き過ぎるのだ」
「…………」
ゲラルトが言わんとしていることに、アリシアは目を眇める。
「あれが戦場で残酷な振る舞いをしても、それに心酔する者が多く出る。政治の上で冷酷な判断を下せば、犠牲者が出ようとも賛同される。どれほど非道であろうと、弱者を切り捨てようと、その冷淡さにすら魅せられる者が絶えることはないだろう」
フェリクスは冷酷な人物であり、自らの腹心となる近衛騎士隊を持っていない。
それでもこの国の騎士たちは、フェリクスを見る恐れのまなざしに、紛れもない敬意と憧憬を滲ませていた。
「あれの見目が。鮮烈なまでの剣の腕前が、聡明さと冷酷さのそのすべてが、民心を魅了してやまない」
「……」
「もはや魔性の類だ。私は王として国のため、あれに過剰な力を付けさせる訳にはいかぬ」
アリシアは、盤上の一点を見据えて目を伏せた。
「そうしなければ、あれはいずれ国をふたつに分裂させる、忌まわしき存在に成り果てるだろう」
「…………」
それを聞き、ゆっくりと息を吐き出す。
「つまり、陛下は……」
狐の駒を手に取ると、それを動かして盤上の右上に置いた。
ゲラルトが眉根を寄せたのは、自らの獅子が動けなくなったことによるものだろう。
「フェリクスのことが、恐ろしいのですね?」
「――――……」
壁際の従者は開口し、もはや何も反応出来なくなっている。
ゲラルトはアリシアをしばらく眺めたあと、鼻を鳴らして女神の駒を手にした。
「……何を言う」
ゲラルトが女神を動かした先は、攻撃に徹していたこれまでとは異なる、逃げの行動を意味している。
「王太子にしか過ぎない息子のことを、一国の王が恐れると?」
「あら。私の父は、王弟にしか過ぎなかった叔父に命を奪われましたよ」
アリシアは竜の駒を動かし、ゲラルトの王の駒に攻め入った。ゲラルトはすかさず妖精の駒で王を守るも、アリシアは更に竜を進める。
「陛下はフェリクスを信用していらっしゃらない。しかしその不信は、ご自身がフェリクスにいずれ負けるのではないかと、そのような未来を予見なさっている故の恐れ」
ゲラルトの妖精の駒の動きが、アリシアの竜を阻んだ。
しかしここで竜の駒を取られても、アリシアは攻め続けることを選択する。
「私には、フェリクスという夫の存在が必要です」
「…………」
婚約の解消など、アリシアが望む訳もない。
叔父を玉座から引き摺り下ろすには、アリシアひとりの力では届かないのだ。
味方になってくれる訳ではないが、強力な手札をいくつも持っている『敵ではない』フェリクスこそ、いまのアリシアにとっては得難い存在だった。
(それに、フェリクスは……)
アリシアに騎士の指揮権を渡し、熱に浮かされれば薬と果物をくれる。
同じ寝台で眠れる温かな体温を思い出して、アリシアは改めてゲラルトを見据えた。
「最初に申し上げたでしょう? 私がこちらのお部屋に参ったのは、フェリクスとの婚姻を解消したいのではなく、妃冠の儀にあたって陛下にお見知り置きいただくため」
「……」
アリシアは馬の駒を動かして、ゲラルトの王を守る戦士の駒を討つ。
ゲラルトは、ぎこちない右手で王を後退させようとしたものの、その手が当たって駒が倒れた。
「とはいえ私、気に入ってしまいましたわ」
「気に入った、だと?」
「陛下のお言葉です。『魔性の力』を持つ男の妻だなんて、とっても良い響き」
倒れてしまった王の駒を、わざわざ元に戻すまでもない。
「――お相手いただき、ありがとうございました」
手にした美しい狼の駒を、ゲラルトの王駒の前にとんっと置いた。
この一手をもってして、アリシアの勝利だ。
「妃冠の儀を楽しみにしております。……叶うならば、陛下にご参列いただけますことを、心より願って」
立ち上がり、ドレスの裾を摘んで一礼したアリシアのことを、ゲラルトは無言で見据えたのだった。
***
「――ということで、勝って来たわ!」
「お前は何をしに行ったんだ?」
アリシアの報告を、フェリクスは冷めたまなざしで切り捨てた。




