30 妃冠の儀
なおアリシアは現在、執務用の椅子に座ったフェリクスの膝に、横向きに乗っている。
「果物だったわ。ただし、荷馬車いっぱいに積まれた木箱の中身は、ぜーんぶ腐っていたけれど」
「……」
「それに、恐らくこれで終わる話ではないわ。何かきっと……」
「おい」
「?」
そんなアリシアの報告を、フェリクスは別の書類を読みながら、顰めっ面で聞いていた。
渋面の理由は、ティーナの贈り物によるものではないらしい。
「お前の母親は、いつも夫の膝に座って公務に関する報告を?」
「そうよ。王族夫妻って普通、そういうものじゃないの?」
「……もういい。説明するのも面倒臭い……」
「???」
何もかもどうでもいいと言いたげな顔をしたフェリクスに、アリシアは首を傾げた。けれども降ろされる気配はなかったため、そのまま彼の膝の上で続ける。
「きっとティーナの筋書きは、『心からの贈り物として果物を選んだけれど、運ばれる過程で傷んでしまって、想定より早く腐食が広がったことにする』といった辺りでしょうね」
異国に嫁いだ姉への贈り物をし、周囲やフェリクスに好印象を持たれながら、それでいてアリシアに不快感を与えるという行いだ。
「もちろん目的は、ただの嫌がらせではないはずよ。贈り物なんて口実で、別の理由があったことは間違いない」
「お前は大雨の中、わざわざそれを探りに行ったのだろう? 収穫なしとは無様だな」
「隧道の崩落を予見できただけで、行った意味はあったわ」
フェリクスは嫌味を言って笑うが、まったくの無収穫だった訳ではない。
「だからこそ誰も、危険な目に遭わせずに済んだのだもの」
「…………」
アリシアが心からそう告げると、フェリクスはその黒灰色の瞳でアリシアを眺める。
奇特な人間を見るような、そんなまなざしだ。
けれどもその双眸は、アリシアのことを興味深く観察する気配を帯びていた。
「なあに? そんなにじっと見て」
「別に。……腐った果物の廃棄をする羽目になって、途方に暮れ泣くお前を見られなかったのは残念だった」
「あら。廃棄だなんて、とんでもないわ」
「……?」
アリシアはくすっと笑い、目を眇める。
「隧道が封鎖されて困っていた農村に持ち込んで、これを利用した肥料の提案をしてきたの」
「……ほう」
「防虫効果がある果物や、発酵した果皮から美しい染料になる果物……他にもすべて有効活用できて、捨てるものなんてひとつもなかったわ」
アリシアがそれらの説明をすると、村人たちは目を輝かせながら話を聞いてくれた。
王太子妃とは名乗らなかったため、アリシアの発言を怪しまれる可能性もあったのだ。しかし、傍に王立騎士団の制服を着た騎士たちがついていたため、驚くほど話は早かった。
「男性たちが隧道の迂回路を整備している期間を活用して、女性たちが手仕事をする。隧道が使えなくて効率が落ちた分の損失が、取り戻せるかもしれないの」
アリシアはにっこりと、悪い笑顔を浮かべて言う。
「ティーナにお礼を言わなくちゃね。あなたの贈り物の、おかげだって」
「……はっ」
フェリクスは心底おかしそうに笑い、目を眇めた。
「妹にとってのお前が、殺したいほど目障りだった理由がよく分かるな」
「そんなに褒めないで。照れちゃうから」
もちろん皮肉であることは分かっている。アリシアは軽口で返しつつも、小さく溜め息をついた。
「問題は、そろそろ大きな動きがありそうな所よ。私の国でのパレードまで半年……ザカリーにそろそろ逃げ出してもらって、偽の情報を持ち帰らせないと」
「もうひとつ、お前の役割がある」
「役割?」
ちょうどそのとき、執務室の扉をノックする音がした。
「フェリクス殿下。入室のお許しを」
「入れ」
「失礼いたします」
生真面目な礼の姿勢で扉を開けたのは、フェリクスの侍従であるヴェルナーだ。彼は静かに頭を上げた後、眼鏡越しにアリシアたちを見て目を見開いた。
「なっ、あ、アリシア妃殿下!?」
「おはようございます、ヴェルナーさん」
アリシアが朝の挨拶をするも、ヴェルナーは真っ赤な顔をして慌てふためいている。
「一体何故、フェリクス殿下の膝にお座りに……!?」
「? だって、夫婦ですので……」
「???」
ヴェルナーは時々アリシアたちを見て、こんな風に動揺するのだ。フェリクスが溜め息をつき、肘掛けに頬杖をつく。
「アリシアのことは無視しておけ。人間ではなく、猫でも居着いていると考えろ」
「あ。私の何処が猫なのよ!」
「猫……」
アリシアは抗議を込めて頬を膨らませるが、フェリクスには真顔で無視された。ヴェルナーは我に返ったらしく、咳払いをしてから背筋を正す。
「取り乱してしまい、申し訳ございませんでした。ちょうどアリシア殿下のお耳にも入れたいことが、二点ほど」
「私にですか?」
ヴェルナーは頷き、一枚の書状を差し出してくる。
「この国における王室の伝統となる、妃冠の儀についてです」
「『ひかんの儀』とは?」
聞き慣れない言葉にフェリクスを見つめると、彼は間近からアリシアを眺めて言った。
「王室に嫁いだ花嫁は、夫からティアラと短剣を贈られる。――それを授けるための儀式こそが、王太子妃の最初の公務だ」