29 フェリクスの弱点
【第5章】
「おはようフェリクス、よく晴れた朝よ!」
「…………」
朝の少しだけ遅い時間、寝台から抜け出したアリシアは、寝室のカーテンを開け放った。
昨晩の雨で透き通った空から、眩い陽光が降り注いでいる。
寝台の傍にある窓を開けると、五月も終わりに近付いた春の、柔らかな風が頬を撫でた。
アリシアはすっかり元気である。昨日の発熱はやはり疲労によるものだったらしく、薬を飲んでぐっすり眠った体は軽かった。
反対に夫のフェリクスの方が、寝台でぐずぐずと怠そうに、いつまでも目を開けないままだ。
「フェーリークース。侍従のヴェルナーさんも、さっきあなたを起こしに来たわ」
「…………」
「朝ご飯。寝室に運んでもらったから、一緒に食べましょ」
「………………」
(薄々思っていたけれど。この人寝起きがあんまりよくないというか、朝が弱いのかしら……)
美しくて冷徹な王太子の、思わぬ弱点だ。
アリシアは寝台に戻ると、フェリクスの腹を跨いでそこに座った。女性とはいえ十八歳の人間に体の上へと座られて、さすがに耐えかねたらしい声が聞こえてくる。
「……重い」
「あ。起きた」
「降りろ。潰れる……」
「そ、そこまで重くないでしょ……!」
そうは言ったものの心配になった。顔を顰めたフェリクスが、それでもまた身じろいで眠りそうになったので、アリシアは彼を脅迫する。
「起きないと私のお母さまみたいに、夫のほっぺにキスして起こすけれど?」
「…………」
「どうしてそれで起きるのよ!」
これまでまったく動かなかったくせに、フェリクスがむくりと上半身を起こした。
そこまで嫌だったのねと考えていると、彼はいつもより少し無防備な表情で、アリシアを見詰める。
「どうしたの?」
「……」
いまのアリシアは、寝台に座ったフェリクスの膝に座って向かい合うような体勢だ。
フェリクスは二度ほど緩慢な瞬きを重ねたかと思えば、そのままゆっくりと目を瞑る。
「!」
アリシアの肩口に、フェリクスが凭れ掛かるようにして頭を置いた。
昨晩の自分を思い出して、アリシアは少し驚く。けれどもフェリクスは別段、体調が悪い訳ではないらしい。
「……眠いの?」
「…………ねむい」
素直な返事があるとは思わず、アリシアはくすっと笑った。
嫁入りから今日まで、朝はアリシアの方が早く起きて寝室を出ていたため、こんなにぐずぐずになった夫を見るのは初めてだ。
「レウリア国に奇襲を仕掛けるなら、夜よりも朝が良いのね」
特大の秘密を握ったアリシアは、優越感と共にフェリクスの頭を撫でてあげる。
「最強の王太子さまが、こんなに弱体化するんだもの。万が一あなたと敵対することになったときのために、覚えておかなきゃ」
「……………………」
「きゃーっ!! 潰れる、潰れる!!」
どんどん体重を掛けられて、アリシアでは支えられなくなりそうだ。ぺしぺしと背中を叩いたら、なんとか解放してもらえた。
「!」
そうしていつのまにか、アリシアが寝台に押し倒されるような形になっている。
アリシアに覆い被さり、顔の横に左手をついたフェリクスが、こちらを見下ろして目を眇めた。大きくて筋張った彼の右手が、アリシアの喉元をゆっくりと掴む。
片手で首を絞めるかのような、そんな触れ方だ。
「――――……」
アリシアは落ち着いた心境で、緩やかに瞬きをする。
故国の奪還が叶ったとき、彼のために未来を見ると約束した。その際には、『誰かに殺されかける』という状況が必要になる。
(……私が未来を見たいときは、フェリクスが殺してくれると言っていた……)
フェリクスがそう約束してくれるのなら、アリシアは他者に殺してもらうために、わざと憎まれる必要などない。
(フェリクスのために未来を見るときも、きっとフェリクスが、私を殺そうとしてくれる)
触れているフェリクスの手が温かい。
昨日は熱があったから冷たく感じたものの、どうやら本来ならフェリクスの方が、アリシアより体温は高いようだ。
「――もう、熱はないな」
「…………」
そう言って、フェリクスはするりと手を離した。
アリシアを心配するようなものでも、体調が戻ったことを安堵する言葉でもない。ただ事実を確認した、それだけの物言いなのに、それはアリシアの左胸をじわりと温かくした。
「ありがとう。フェリクス」
「これからは、衰弱死しそうなときは予め言え。妃が死ぬにあたっては、さすがに俺にも準備がいる」
「ふふ。……やっぱりやさしくない……」
「何を言う」
アリシアを見下ろしたフェリクスが、とびきり美しくて意地の悪い笑みを浮かべた。
「俺の妃は、優しくないのが嬉しいんだろう」
「っ、そんな風には言っていないでしょ!」
昨日の発言を少々恥ずかしく思いつつ、さすがにお腹が空いてきたため、アリシアは朝食の準備を始めるのだった。
***
朝食後、フェリクスの執務室に入ることを許されたアリシアは、昨晩伝えきれなかった顛末を彼にこう告げた。
「それで、ティーナの贈り物の中身だけれど……」