28 幸福(第4章・完結)
名前を呼ばれた幸福に、アリシアは目を眇めた。
「フェリクス」
「……なんだ」
高い熱で思考が茫洋とする中でも、もう一度夫のことを呼ぶ。
「フェリクス……」
「……だから、なんだと聞いている……」
溜め息のあと、フェリクスが気怠げに手を伸ばした。
「いいからもう、眠れ」
フェリクスの指が、アリシアの首筋に触れる。肌の表面をなぞられるのがくすぐったく、けれども冷たくて心地良い。
「体温が高過ぎる。お前の熱が下がらないと、俺が寝苦しくて仕方ない」
「……フェリクスの、名前」
アリシアは苦言に返事はせず、フェリクスが纏う夜着の袖を掴んで引いた。
「どんな意味が、あるの?」
「……」
アリシアの国とこの国では、名付けの元となる古言語が異なる。同じ意味の名付けをしたとしても、ふたつの国では違う名前になるのだ。
そのためアリシアには、フェリクスという名の由来が想像できなかった。けれどもフェリクスからしてみれば、寝ない子供が駄々を捏ねているように見えたかもしれない。
「お前に寝る気がないのなら、こちらにも考えがあるが」
「……ねむるのが、怖いの」
小さな声でそう答えると、フェリクスが眉根を寄せる。
「見たくない夢を、見てしまいそう……」
「…………」
毎夜見ている夢の記憶を、アリシアは目覚めると忘れてしまう。
左胸に深い悲しみが沁み込んだままの朝を、自分では平気なつもりでいた。けれども熱が出て辛い今は、そんな虚勢を張れる自信がない。
「いまあなたの名前を呼ぶと、少し、目を閉じる勇気が出るから。……名前に、特別な意味があるのかと、そう思って……」
「…………」
フェリクスは目を閉じ、再び溜め息をつく。
それでも、アリシアがぼやぼやと霞む視界で見つめていると、彼はやがてぽつりと呟いた。
「――『幸福』」
「――――……」
アリシアの脳裏に過ぎったのは、亡くなった母による最期の祈りだ。
『覚えていてね、アリシア。その体に流れる血、あなたがこの国の王女である事実は、お父さまが亡くなっても消えないと。お母さまに未来は見えないけれど』
母は微笑み、願いを捧げてくれたのである。
『――あなたのこの先が、「幸福」であることを信じ続けるわ』
あのとき母に贈られた言葉が、いまになって届いたような心地がした。
自分が毎夜どんな夢を見ていたのかも、はっきりと思い出す。眠ってしまうとまたあの夢を見るとしても、フェリクスの名前を口にすると、少しだけ怖くなくなる理由もだ。
「…………フェリクス」
「だから、もう眠れと言って…………」
アリシアがフェリクスにしがみついたのは、涙を隠すためだと気取られたはずだ。
分かっているのに、涙が溢れて止まらない。アリシアは泣きながら、それでもどうにかフェリクスに尋ねる。
「私の夢の中に、あなたが助けに来てくれていた……?」
「…………」
僅かな沈黙のあとに返ってきたのは、淡々としているが穏やかな声音だ。
「行っていない」
「っ、うそつき……」
「俺がわざわざ、そんな面倒なことをするものか」
フェリクスは続けて、アリシアの耳元にこう告げる。
「お前自身がその夢から、自身の力で目覚めている」
「……!」
アリシアの在り方を肯定されたのだと、そう錯覚したくなるような言葉だった。
「…………っ」
熱の所為だけではなく、体の力が抜けた心地がする。すると涙もますます零れて、フェリクスの胸元に額を押し付けた。
「……はっ。なんだ、まだ泣くのか?」
「た、たのしそうに見ないで……」
アリシアがぐしゃぐしゃに泣いていると、フェリクスは何処かに手を伸ばす。
どうやら上掛けを引き寄せたらしく、いつも寝入りのときは彼ひとりが使う柔らかな上掛けが、アリシアの目元近くまでを覆った。
それはまるで、弱ったアリシアを温めながら、泣き顔をも隠してくれているかのようだ。
「俺はもう寝る。これ以降、お前の相手はしないからな」
「わ、わたしも、もう寝るもの」
「そうしろ。お前に衰弱して死なれると、色々と俺に不利益がある」
フェリクスは意地悪く笑いながら、上掛けから顔を覗かせるアリシアを見下ろして言った。
「お前は死なせるよりも、生かしておいた方が都合が良いからな」
「……やさしくない……」
ずびっと鼻を鳴らしながら、アリシアはフェリクスにしがみつく。
それでも彼には、伝えておかなくてはならない。
「ありがとう。フェリクス……」
なんだか安心した心持ちのまま、アリシアはゆっくりと目を瞑る。
そうして寝息を立て始めたアリシアのことを、フェリクスはしばらく眺めていた。
「…………」
それから、まるで抱き枕のようにアリシアを抱き込むと、フェリクスも静かに目を閉じたのである。
***
「よかったわ。……本当に、安心した……」
王女ティーナは鏡を見詰め、くすくすと愛らしく笑っていた。
「シオドアが私の味方だって、ちゃんと確かめることが出来たもの。当然のことだけれど、やっぱり嬉しい……」
ティーナがぎゅうっと抱き締めたのは、自分のためのウェディングドレスだ。レウリア国王太子フェリクスとの婚儀で纏うために、わざわざ姉アリシアと同じ意匠で作らせた。
「シオドアが早速、出発の準備をしてくれているわ。これさえ上手くいけばもう大丈夫、お姉さまを殺せる……」
ドレスに頬を擦り寄せて、ティーナは顔を歪めながら笑う。
「待っていてくださいませ。私の未来の旦那さま、フェリクス殿下……!」
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第4章・完
第5章へ続く
ここまでで、第4章はお終いです! お読みいただきありがとうございました。
もしよろしければ、このお話を楽しんでくださった方は、楽しかった度に応じて
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