27 アリシア
「お前が夕食さえ摂っていれば、解熱薬だけ飲ませて放置できたものを」
「……?」
その言葉に、アリシアは発熱を自覚する。どうやらここはフェリクスの寝台で、そこに寝かされているようだ。
サイドテーブルへ置かれた器には、白くて甘そうな果物が、小さく切った状態で盛られている。
「……もも?」
どうしてこんなものが寝室にあるのか、まったく分からずにぼうっとした。
「さっさと胃に入れろ。薬を飲ませ終わったら、俺はお前を放って寝る」
「……もも……」
食べ物はあまり、必要としている感覚がない。
けれども喉が渇いていて、桃ならば食べられそうな気がした。アリシアはもそもそと体を起こし、金色のフォークへと手を伸ばす。
けれども手からフォークが滑り、音を立てて床に落ちてしまった。
「っ、ごめんなさい……」
寝台に手をつき、どうにかして拾おうとするアリシアに、フェリクスが溜め息をつく。
かと思えば、彼はアリシアの肩を掴むと、引き起こしてしっかりと抱き寄せた。これはフェリクス自身の体を、アリシアの背凭れにするような体勢だ。
更にフェリクスは、その綺麗な指で桃を摘む。
もう一方の手でアリシアの顎を掴み、くちびるを開かせてきた。そうして甘くて柔らかい桃が、口の中に押し込まれる。
「ん、む」
平時であれば驚いて、食べるどころではなかっただろう。
けれどもぼんやりしたアリシアは、されるがまま素直に受け入れた。ゆっくりと顎を動かして、緩慢に飲み込む。
瑞々しくて甘い果肉は、アリシアの喉を潤した。
「……おいしい……」
「……」
ほとんど独り言のように呟くと、フェリクスが器からもう一欠片の桃を摘み上げた。
果汁で手が汚れてしまうはずだが、フェリクスにそれを厭う様子はない。結婚当日、血塗れのアリシアを『汚い』と引き剥がして、心底から嫌そうな顔をしていた男なのにだ。
はむ、はむ……とフェリクスの指ごと桃を食べたら、それを無言で叱るかのように舌を押さえられた。
もう桃をくれなくなるかと思いきや、フェリクスはアリシアがすべてを食べ終えるまで、辛抱強く口に運んでくれる。
そうしてアリシアに苦い粉薬を含ませ、水差しの水を手渡す。
アリシアが薬を飲み込むと、彼は器をサイドテーブルに戻して手を拭いたあと、アリシアに背を向けて寝台に横たわった。
「寝ろ」
「…………」
アリシアは、ひどく緩慢な瞬きをする。けれどもいまはフェリクスの言うことを聞くのが正しいのだと、回らない頭でそう考えた。
寝台にたくさん並べられた枕のうち、ひとつはすっかりアリシア専用だ。ふわふわのそれに頭を乗せて、彼の背中に伝える。
「……ありがとう、フェリクス……」
飲ませてもらった解熱薬が効くには、まだ時間が掛かるだろう。それでも甘い果実によって、若干の元気が戻ったのを感じる。
けれどもフェリクスは、淡々とした言葉で紡ぐのだ。
「発熱したままのお前を放置して、この寝室で死なれても困るというだけだ」
アリシアは瞬きをし、ぼんやりとしながら重ねて問う。
「……でも、あなたの騎士、貸してくれた……」
「その方が利益になると判断した。事実、俺の想像は正しかっただろう」
「ザカリーだって、私の自由に、させてくれるもの……」
「あとは殺して捨てるだけの捕虜を、誰がどう使おうとどうでもいい」
返ってくるのはどれも、至って素っ気ない内容だった。
「……やさしくない」
「はっ。お前が俺にやさしくされたいと?」
フェリクスはこちらに背を向けたまま、嘲笑混じりに言う。
その背中は広く、骨格や筋肉のラインが夜着越しに浮いていて、彫刻のように芸術的な造りをしていた。
フェリクスの背に身を擦り寄せると、背骨辺りに額を押し当てて目を閉じる。
「……いいえ」
アリシアは、誰かの体温が傍にあることへの安堵を、彼と眠るようになってから思い出していた。
だから熱のこもった指先で、フェリクスの夜着をきゅうっと握り込む。そうして、とても小さな声で告げるのだ。
「やさしくなくても、うれしかった」
「――――……」
なんとなく、フェリクスが眉根を寄せたような気がする。
「……お前」
「アリシアって、ちゃんと呼んで」
「…………」
「わたしは、あなたの言うとおり、フェリクスって呼んでいるもの……」
もちろん今更変えろと言われても、『殿下』に戻せる気はしない。
それでもアリシアが駄々を捏ねたのは、どうしてか恋しかったからだ。
幼い頃に呼んでくれた両親は、もう居ない。
いまのアリシアを呼び捨てるのは、アリシアに侮蔑や怒りを抱く者だけだ。
だから呼んでみてほしいのだと、そんなことは口にしなかった。けれどもやがてフェリクスは、大きな溜め息をつく。
寝返りを打ってこちらへ向かい合うと、黒灰色の双眸でアリシアを見据えながら、低く穏やかな声でこう紡いだ。
「………………アリシア」
「…………!」
まるで一滴の雫のように、アリシアの左胸へと喜びが広がる。