2 王女、がんばる
【一章】
国境を越えた直後の森の中で、アリシアは急いで駆けていた。
(あと少し。この森を抜ければ、追っ手が来ても逃げ切れるはず――)
それなりに体力を付けてきたつもりでいても、これだけ逃げ続けていれば息が切れる。襲撃者から奪った剣は男性用で重く、いつもの訓練用とは勝手が違った。
「!」
上から何かが降ってきて、アリシアは瞬時にそれを剣ではらう。それは単なる木の枝だったが、真っ二つになった切り口の鋭さに目を細めた。
(こんなに造りの良い剣を持つのは、国の正規の騎士くらいだわ。賊のふりをして襲う作戦のくせに、詰めが甘い)
そして目下の心配ごとは、いま着ている婚礼衣装のことだ。
真っ白だったウェディングドレスは血に染まり、とりわけ左胸部分が真っ赤になっている。
この姿で人前に出てしまえば、きっと騒ぎになるだろう。けれどもまずは生き延びるために、薄暗い森の中を走り続けた。
(こうして生きていられるのが、いまでも不思議なくらいだけれど……)
***
『おかあさま、泣かないで……!』
アリシアの父王が殺されたのは、アリシアが五歳のときである。
為政者としてやさしすぎる国王だった父は、弟であるアリシアの叔父に玉座を奪われて、殺された。
父は長年叔父を警戒し、さまざまな国との同盟関係を築いていたはずなのに、それでもすべての援軍が間に合わなかったのだ。
父の臣下や騎士たちもほとんどが殺され、アリシアと母のふたりは生かされた。そして王位交代の宣言がされると共に、アリシアたちは城の一室に閉じ込められた。
アリシアは怖くて震えていたが、それ以上に体の弱い母が心配で、幼いながらに必死で母に言い募ったのである。
『アリシアが、おかあさまを守るから……! 剣のれんしゅう、いっぱいしたもの。だからこわくないよ、大丈夫……!』
それでも涙が零れそうなアリシアを、母はやさしく抱き締めた。
『よく聞いてね、アリシア。あなたの体に流れる血には、秘密があるの』
『ひみつ……?』
涙に濡れた目でまばたきをすると、母はそっと頷く。
『この国の王族の中には時折、未来を見る力を持つ者が生まれるそうよ。そしてその力を持つ者は、朝焼けのような淡い赤紫の髪を持っていると言われているの』
そう言って母が撫でてくれたアリシアの髪は、まさしく赤紫の色彩を持っていた。
『アリシア、みらいがわかるの?』
『ええ。ほとんどの人が迷信だと思っているけれど、きっと間違いないわ』
『アリシア、そのちから、ためしてみる!』
すると、母は悲しそうに首を横に振ったのだ。
『それは駄目。その力を本当に必要とするときがくるまで、絶対に使わないと約束して』
『どうして? だって「みらい」がわかったら、どうやったらおかあさまを助けてもらえるか、わかるかもしれないのに……』
『駄目なの。だって未来を見るための、その条件は――……』
『……!』
アリシアにその続きを告げながら、母の声は泣いていた。
『覚えていてね、アリシア』
そうしてすべてを教わったそのあとに、やさしい手でアリシアの髪を撫でてくれる。
『その体に流れる血。あなたがこの国の王女である事実は、お父さまが亡くなっても消えないと』
『……おうじょ……』
『お母さまに未来は見えないけれど、あなたのこの先が幸福であることを信じ続けるわ。私たちの、可愛いお姫さま……』
元々弱かった母の体は、クーデターに遭ったことと夫の死で限界を迎えたのだろう。
母はそのまま血を吐いて、アリシアの目の前で倒れた。アリシアの泣き叫ぶ声を聞き、見張りの騎士たちが部屋に入ってきても、母が意識を取り戻す気配はない。
『おかあさま! おかあさま、死なないで……!』
『おい、先王の妃が呼吸をしていないぞ! 誰か医者を――……』
母はそのまま還らぬ人となり、残されたアリシアは窮地に陥った。
けれどもそれを救ってくれたのは、民の声だ。
『まだ五歳のアリシアさまに、温情を!』
王族同士の争いに巻き込まれた形となった国民は、それでもアリシアのために声を上げてくれた。
『小さな王女さまには、なんの罪もありません。先代の国王陛下とお妃さまは、私たちの声をしっかりと聞いてくださいました!』
『どうか新たなる国王陛下におかれましても、聞き届けてくださいますよう……!』
『いかがいたしますか、陛下。殺さなければ禍根の種になるとはいえ、新王誕生の直後に民の訴えを退けるのも、余計な火種となりかねません』
新たな王となった叔父にとって、アリシアの存在は心底どうでもよかったのだろう。
『このようなことで、民に暴動を起こさせるのも馬鹿らしい。これから王としての華々しい人生を送るにあたって、国内の些事に構ってなどおられぬ』
『であれば王室からは追放なさらずに、いっそ王女としての身分のまま残された方が、政略結婚などにも使い勝手がよろしいでしょう』
『そうだな。王位継承権は剥奪し、間違ってもアリシアが力を付けることのないように管理することを条件として、アリシアを我が養女とする』
こうしてアリシアは、自分の父を殺した叔父による王室に、王女として残ることになったのだった。
けれどもそんなアリシアが、簡単に受け入れられるはずもない。
『――どうして私がティーナの姉として、あの女の娘を受け入れなくてはならないのかしら!』
叔父の妃である叔母は、ずっとアリシアの母が邪魔だったようだ。
『私の方がずっと高貴な血筋なのに、あの女がまんまと王妃になって……!! 私の夫が王になることで、ようやく正しい形になったのよ!? それなのに、我慢ならないわ!!』
先王の子であるアリシアの味方が増えてしまえば、いつか王の脅威になるかもしれない。
そんな考えから、城の人々は貴族から使用人に至るまで、アリシアにやさしくすることは許されていなかった。
(……ひとりぼっちに、なっちゃった)
城の隅に与えられた小さな部屋は、物置同然の薄暗い場所だ。
(だけど、国民のみんながアリシアのことを助けようとしてくれたから、アリシアはまだげんき……)
それを確かめるため、小さな手でぺたぺたと自分の頬を触る。
殺されるのが当然だったのだと、幼いながらに理解していた。両親が王と妃として民を守ってきたからこそ、アリシアは生きていられる。
(――きめた!)
ひとりぼっちの部屋で両手をぎゅっと握り、それを頭上に掲げて自身を鼓舞した。
『みんなにありがとうってするために、王女の「せきにん」を果たさなきゃ。そのためにすっごくがんばるぞーっ、えいえいおー!!』
元気いっぱいの大きな声が部屋に響く。かくしてアリシアの努力の日々が、始まったのだ。
***
『まずは、ごはんをたべて、すくすく大きくならなくちゃ!』
食事はあまり与えてもらえず、寒い日に暖炉も寝具もない部屋で眠る必要があった。立派な王女になるためにはまず何よりも、死なずに生きる力を身に付ける必要がある。
(おなかが空いてひもじいから、どんな物なら食べられるかを、おべんきょうしましょう!)
幸いにしてアリシアが軟禁された城の隅には、叔父たちに見向きもされなかった図書室があった。
ここにある蔵書は、どうやら両親がアリシアのために集めてくれたもののようだ。
そこには世界中のさまざまな知識が、項目ごとに本棚を分けて収められていた。五歳の幼子でも読めるものから専門書に至るまで、少しずつ難しくなっていくよう並べられている。
娘の見識を深めるための親心が、娘の命を救うことに直結することなど、両親はきっと想像していなかっただろう。愛情によって集められた本の中で、アリシアは食事の手段を獲得した。
(ふんふん、草や木の皮……。わあすごい! こうやったらおいしく食べられるの?)
空腹を紛らわせることが出来たら、次は寒さを凌ぎ、眠る方法を本から学ぶ。
(夜に少しでもあったかくする方法は? なるほど……ちがう織り方の布をかさねれば、うすいのでもちょっとあったかいのね)
食べて眠り、健康が維持できるようになると、新しいことを勉強する力が湧いてくる。
(火はどうやって起こすのかしら。布の歴史の本も読みたいし、こっちの織り方の本も気になるわ! それからこの国で作れない布は、どこからやってきたの? 『ぼうえき』ってなあに?)
アリシアは織物をきっかけに、繊維についてや各国の事情、そこから繋がる貿易を学んだ。ほかの国と商いをするには、国同士の関わり方が重要であることもよく分かった。