18 血の味
そのまま牢を出ると、獄卒用の椅子に座ったフェリクスの膝へと横向きに座る。
フェリクスが僅かに目を眇めるが、構わずに彼の頬に手を伸ばし、新妻らしく願いごとをした。
(あの賊の目に、愚かな女として映った方が好都合だわ)
だからこそ、節操なく振る舞った方が良い。冷めたまなざしのフェリクスに向けて、甘えるふりをする。
「彼はティーナのために私を殺しに来ているだけだもの。私以外の人に、危害を加える未来は見えなかったわ」
「却下だ。お前を殺すために、他の者に危害を加えて脅迫してくる可能性がある」
フェリクスがそう言ったのは、恐らくはアリシアを守るためではない。そのような事態になった場合、単純にフェリクスが面倒なのだろう。
フェリクスはそれを隠すつもりもない表情だったが、アリシアを膝から落とすような真似はしなかったので、それだけは少し意外に思った。
「それなら手枷を付けたままでいいわ。どうせあなた、あと三十分もしないうちに公務へ出掛けてしまうのでしょう? 目の保養、傍に置いておきたいの」
「くれぐれも、縄から手を離すなよ。お前が殺されたときは、故国に報告くらいはしてやるから安心しろ」
「ふふ。そうなったら私の見た未来の通り、ティーナの悪い噂が立っちゃうわね……?」
牢の方を見遣れば、賊は依然として強い憤りを宿した瞳で、アリシアを強く睨み付けている。
「事実無根の噂ではないから、とっても否定しにくいと思うわ。ティーナが私の襲撃を命じた以上、その証拠をすべて消し切ることは難しい」
「ティーナさまは……」
怒りに震えるその男が、必死に抑えるような声音で紡いだ。
「貧しい村が苦しんでいる最中にも、お前たち王族は何もしなかった。ただひとり、ティーナさまを除いては……」
「……そう」
「お前のような毒婦が、大国の王太子妃の権力を握っては、民がどのように苦しめられるか分からない。あのお方は、そのことを必死に悩まれていたんだ……!」
「『民のために、誰かを殺すことも厭わない、王女としての覚悟』」
ゆっくりと目を細め、男に告げる。
「――それがあの子にも本当にあったのなら、重畳ね」
「…………!」
言い放ったその声は、我ながら冷え切ったものになってしまった。
アリシアはにこっと笑い、フェリクスに向き直る。それから、くちびるの動きだけで彼にお礼を言った。
(お膝を貸してくれて、ありがとう)
「…………」
そうしてフェリクスの膝から降りようとした、そのときだった。
「!」
フェリクスが、アリシアの手首を捕える。
先ほど短剣で斬った甲は、いまだに血が止まってはいない。
「ど、どうかした……?」
「…………」
淡い灰色の瞳が、じっとその傷口を観察する。少し伏目がちな表情は、その睫毛の長さを殊更に強調させた。
かと思えばフェリクスは、アリシアの手の甲にくちびるを寄せて、滴る血の雫を舐め取るのだ。
「ひゃっ!?」
「――――……」
その舌は熱くて柔らかい。びくりと肩が跳ね、変な声まで出てしまう。
「な、何!?」
フェリクスは無表情のまま、その赤い舌で自分のくちびるも舐めた。何もおかしなことはしていないと言いたげなその無表情に、ほんの少しだけ嫌そうな感情が混じる。
「……不味いな」
「当たり前でしょ!」
ぱっと手首が離されたので、アリシアは慌てて自分の手を引っ込めた。フェリクスはそんなアリシアの体を素っ気なく押しやりながら、早く降りろと促してくる。
「たとえ神秘の血の味といえど、戦場で口に入る血と変わらんか。つまらん」
そう言ってべっと舌を出すので、よほど美味しくなかったのだろう。
(味が気になるのも大概だけど、それを実際に舐めてみて試すのもどうかしてるわ……!)
「なんだ、その顔は」
「こんな顔をしたくもなるわよ。……とにかく!」
アリシアはようやくフェリクスの膝から降りると、格子越しに賊を見下ろす。
「この男は連れ回させてもらうわ。私の飾りとしてね」
「…………」
***
騎士によって牢から出されたザカリーは、手首に食い込む枷をじっと睨み付けながらも、自らの敵のことを考えていた。
ティーナにアリシアの暗殺を願われ、何が何でもそれを果たすと誓っていた身だ。
それがこうして失敗し、投獄されて何も出来ないどころか、これから見せ物としてアリシアに連れ回されるのだという。
(アリシア・メイ・ローデンヴァルトは、ティーナさまの憂いの元凶だ。あのお方が泣きながら決死の覚悟で、姉を殺してくれと仰った……)
先王の王女であるアリシアは、国民の嘆願によって生かされたにも拘らず、ティーナが幼い頃から悪事を行なってきたのだという。
かつてティーナに救われてきたザカリーたちを、ティーナの『影の騎士』として集めたのは王妃だ。
いざというとき、国の正規の騎士では動けないこともあると言い、表立って出来ない仕事を任されていた。
『これまでは、私がお姉さまの非道な思惑を、私が密かに対応して参りました。どんなに辛いことがあっても、私ひとりが耐えれば良かった……』
『……ティーナさま』
『けれどお姉さまが王太子妃になっては、今度こそ膨大な犠牲を生むかもしれません』
瞳いっぱいに涙を溜めたティーナは、震えながらもザカリーたちに懇願したのである。
『すべての罪は、私が被ります。……どうか、アリシアお姉さまの生み出す悲しみに終止符を打つために、力を貸してください……!』
(……アリシアの傍で、好機を探る。あの女の言った未来通りになど、するものか)
ザカリーはそれを決意しながら、ゆっくりと地上への階段を上がっていった。
その途中で、先を歩いていた女が振り返る。
「ところで。あなたの妹は、今は元気なのかしら?」
「…………」
そう問い掛けてきたアリシアを、ザカリーは再び睨んだ。
「病の後遺症もなく、村を走り回っていると手紙が来ている。すべては、ティーナさまのお陰でな」
「そう」
その瞬間だった。
「……よかった……」
「!」
アリシアは、心から安堵したように微笑んだのだ。
演技とは思えないその表情に、ザカリーは思わず立ち止まる。それを騎士に窘めるように引っ張られ、再び歩き出した。
(……何故だ? この女が、俺の妹を気に掛けるはずも……)
そして、朝焼けのような赤紫色の髪を持つ、華奢な女の背中を見上げる。
(まさか、な。……いや、だが……)
***