10 「私たち初夜ですものね? 旦那さま」
夫の鋭さは、アリシアにとっては少々都合が悪い。未来視の力があと二回しか使えないことを見抜かれては、一気にこちらが不利になるからだ。
とはいえそれは顔には出さず、侍従の男性に微笑んだ。
「問題ございません。入浴や着替え、すべての身支度は私ひとりで行えますので」
「おひとりで、ですか? しかし」
「あ。でももし良かったら、石鹸などは貸していただきたいです……! 取り急ぎのものを自作をしようにも、ここには材料がありませんので」
「自作? 石鹸を?」
侍従が目を見開くが、アリシアにとっては日常だった。
「野生の草花や、安価な原料から作ることが出来て便利なのですよ? 素朴な材料で作ると泡立ちが悪いことは確かですが、泡の多さと汚れの落ち具合に関係がないことは、本で読んだあと実際に比較して確認済みです」
「…………」
お忍びで出向いた貧民街で、衛生面向上のために作り方を教えて回ったことも、可愛らしい見た目に作り上げて販売したこともある。
侍従はしばらく硬直したあと、咳払いの上で一礼した。
「ここでの生活に必要なものは、お気兼ねなくなんでもお申し付けください。……それといまのお話、フェリクス殿下にご報告させていただいても?」
「? はい、もちろん。特になんでもない、日常会話ですから」
「日常会話……王女による石鹸の、自作体験談が」
なんだか難しそうな顔をしている侍従の後ろで、アリシアも作戦を練る。
(お風呂から上がって着替えたら、今度こそフェリクス殿下から事情を聞かれるかしら。最初の戦いはきっと、そのときね)
侍従に促されたアリシアは、再び歩き出しながら胸を張った。
(いまから身構えていても仕方ないわ、まずはお風呂! ゆっくりしっかり温まって、それから腹の探り合いといきましょう!)
けれどもアリシアが入浴を終え、届けられた荷物のドレスに着替えても、フェリクスに呼び付けられることはなかった。
それどころか夕食の時間になっても、アリシアは食堂でひとりきりだ。どれほど時間が経っても、フェリクスは姿を見せなかった。
(……どうしましょう。ご飯がすごくすごく美味しくて、綺麗なドレスを着て、さっぱりした体はぽかぽかで……)
石鹸の良い匂いに包まれたアリシアは、食後のアイスクリームを食べ終えてから呆然とする。
両親が亡くなってから、雑草を食べて古布で寒さを凌ぐ生活をしていたアリシアにとって、これはあまりにも恵まれたひと時だった。
(これではただ、嫁ぎ先で幸せになってしまっただけの状態なのだけれど……!?)
『冷酷な夫からの尋問の危機』は、一体どうなってしまったのだろうか。
「あ、あのう」
アリシアはそっと、食堂の壁際に控えていた侍従の男性に尋ねてみる。
「フェリクス殿下はいま、どちらにいらっしゃるのでしょうか?」
「殿下は所用でお出掛けでして、あと一時間ほどで戻られるご予定です」
ここまで把握しているのであれば、彼は普段からフェリクスの身の回りを世話しているのだろう。
「そのあとの殿下は、一体どのようなご予定なのですか?」
「ご入浴などを済まされたあと、少し執務をなさってからお休みになられるはずです」
(明らかな厄介ごとを抱えた妻を、放置したまま……)
どうして何も問い詰められないのか、アリシアは困惑してしまった。
(フェリクス殿下に捕らわれて、未来視の力について尋問される覚悟をしていたのに。まさかこの状態で一夜明かさせることこそが、尋問の始まりだとでも言うの?)
侍従の男性は、アリシアが困っているのを察したらしい。彼はあまり表情を動かさず、それでもアリシアを気遣ってくれる。
「アリシアさまも今夜はお疲れでしょう。お輿入れ後、最初の夜でもありますし、ご用意させていただくお部屋でゆっくりとご就寝ください」
「……最初の夜」
その言葉に、なるほどと気が付いた。
「このあと侍女が、アリシアさまのお部屋にご案内いたします。フェリクス殿下の部屋とは離れた場所にさせていただきましたので、今宵はそちらで……」
「いいえ」
アリシアはにこりと微笑んで、侍従を見上げる。
「フェリクス殿下の寝室にご案内いただけませんか? 私そちらで、殿下のお帰りをお待ちいたします」
「……アリシアさま?」
「殿下もきっとお許しくださるはず。だって今日は……」
***
「私たち初夜ですものね? 旦那さま」
「――俺の寝室で、何をしている」
部屋に入ったフェリクスは、開口一番にそう言った。
フェリクスの寝台に腰を下ろし、レースと柔らかな布で出来たナイトドレスを纏ったアリシアは、わざと小首を傾げてみる。
「旦那さまのお言葉のすぐ直前に、私が申し上げた通りですが」
「…………」
部屋の扉を開けた瞬間、フェリクスからものすごく異様なものを見るまなざしを向けられたため、その表情が浮かべた疑問に答えたのだ。
(このまま自室に帰されて、落ち着かない気持ちで一夜を明かすなんて絶対に嫌だわ。協力関係を築き上げて国を奪還するためにも、この人の真意が少しでも知りたい)