買主の要望
「芙蓉。大丈夫か?」
龍栄たちと別れて客間に戻るなり、旦那様は心配そうに芙蓉を抱きしめる。
「はい。緊張しましたが、何も酷いことはされていませんわ。でもとても疲れてしまいました。」
芙蓉は頭を旦那様の胸に預けて目を閉じた。
「そうか。ごめんな。もう二度とさせないから。」
こういうときだけは察しが良い。
「風呂に入るか?それとももう休むか?」
「お風呂に入りたいです。」
「うん、じゃあ一緒に行こう。」
「・・・でも龍陽が寝ていますし。」
「侍女が居るし、廊下に疾風とタタも控えさせておく。それでも心配なら脱衣所まで連れて行こう。」
ダメだ。こうなると旦那様は譲らない。
「皆が居れば安心ですわ。龍陽を起こしてはいけませんし。」
芙蓉は諦めてタオルと着替えの準備をする。
「じゃあ行こうか。」
旦那様は芙蓉の肩を抱いて客間を出た。
廊下の反対側から来た本家の使用人たちが壁に避けて深々と頭を下げる。
「芙蓉。ここでは俺の側から離れるなよ。本家の使用人は信用ならない。」
旦那様は真剣だ。
「え?それなら龍陽は?」
息子も連れてくるべきだった・・・芙蓉は不安になる。
「龍陽は心配ない。獣人が転変した竜の子を襲うことはないからな。」
「私は襲われる危険があるのですか?」
「・・・芙蓉が悪いんじゃない。俺が嫌われてるんだ。母上と一緒に本家に来た時からずっと。」
『熊と孔雀の確執か・・・』
どうりで本家に泊まることを嫌がっていたはずだ。成獣するまでどんな思いで過ごしていたのだろうか?
孔雀の母は旦那様が12歳の時に亡くなったと聞いた。継母と異母兄弟も住む本家で子どもが一人。使用人たちにも嫌われ、苦労したに違いない。
「着いたぞ。」
お風呂は枇杷亭のお風呂と同じくらい広かった。脱衣所もお風呂も誰も使った形跡はない。
龍栄夫婦とほかにも紫竜一族の夫婦が泊っていると聞いたが・・・
「ちょ、旦那様。こんなところで何をなさるのです。」
浴槽に浸かって、考え事をしていた芙蓉は慌てて旦那様の左手をつかむ。
「ん?いつものことだろ?」旦那様は不思議そうな顔をする。
「誰が聞いているかわかりませんし、この後、別の方がこのお風呂に入られるかもしれませんよ。」
「この風呂は、今日明日は俺たち専用だから誰も来ないぞ。」
「え!でも他のご夫婦も泊っておられるのでは?」
「ああ。でも同じ風呂は使わない。客間だって別だろ?」
旦那様は平然と答えるが、芙蓉は驚きを隠せない。
風呂もいくつもあるということだろう。本家はどれだけ広く設備が豪華なのか・・・人族の旅館とはレベルが違う。
いや、だからと言って・・・旦那様の左手が芙蓉の手を振りほどいて身体に触れる。
「ん・・・」芙蓉は声を出さないよう我慢するしかなかった。
やっとお風呂から出て、涼しい廊下に出たが、芙蓉は耳まで真っ赤だ。
上機嫌の旦那様は芙蓉の肩を抱いて廊下を歩く。
やっぱり息子を連れてくるべきだったかな・・・いやきっと旦那様は気にしない。
「枇杷亭の旦那様は随分熱心だこと。」
「息子一人では不満なのでしょう。族長になろうと必死なのね。」
「鶯亭の若様がお気の毒だわ。」
姿は見えないが使用人たちの陰口が聞こえてきた。
旦那様は声のする方を不愉快そうに睨んでいる。
だけど、
『そりゃ、そう言われるでしょう。』
芙蓉だってそう思う。本家の風呂場であんなことをするなんて・・・使用人にわざと聞かせたとしか思えない。
それに2人目の息子が産まれたら次期族長確定とククは言っていたのに・・・旦那様は一度も避妊をしない。
嫌がっているのは口先だけで野心があると思われても仕方がないだろう。
やはり獣人・・・いや人外の考えは分からない。
芙蓉はどっと疲れてしまった。
客間に戻ると布団が敷いてあった。もう日付が変わる時間だ。シュンとククを下がらせて、布団に横になった。
「芙蓉」すぐに芙蓉の身体に両手が回される。
「また使用人たちに陰口を言われますよ。」
「言わせておけばいいさ。龍栄殿だって気にしない。」
「ご兄弟で仲が良いのですね。」
「悪いよ。どちらも面倒事を押し付けようとしてる。」
「やっぱり龍栄様も族長になることを望んでいないのですね。」
「さすがだな。」
「子を産めぬ妻を側に置き続けておられれば・・・」
「それは違うよ。俺たちは自分からは別れられないんだ。妻に何をされても・・・」
「・・・申し訳ありません。」
「なんで芙蓉が謝るんだ?」
「昨年、私も」
「芙蓉は子どもに何もしてないだろ。白鳥や白猫とは違うよ。」
「でも先ほど真っ青な顔をしておられたのは・・・」
「あれは、母上を思い出していた。俺を産んだ後、二度死産してる。」
「・・・なぜ旦那様がご存じなのです?」
「俺の目の前で割ったから。」
『きかなければよかった。』芙蓉は後悔した。だけど
「なぜ?」
孔雀には帰る実家はなかったはずだ。
「熊に再度執着してから、父は母をリュウカの部屋から追い出したんだ。2人の妻を平等に扱うから一つしかないリュウカの部屋は閉鎖すると言ったらしい。」
「・・・それは旦那様には関係ない話では?」
夫への復讐だとしても息子を巻き込む必要はなかったはずだ。
「紫竜すべてが憎かったんだろうな。」
「そんな・・・」
芙蓉はもうかける言葉が見つからない。芙蓉は息子が愛おしくて仕方ない。
息子の父のことは全く好きではないが・・・憎んでもいないからだろうか。
「俺の妻は芙蓉だけだよ。族長になるために妻を変えたりしない。だからずっとそばにいてくれ。」
そう言って芙蓉を強く抱きしめる。
「旦那様がそう仰るなら。」
芙蓉は今夜も旦那様を受け入れることにした。
翌朝、旦那様は族長に呼ばれ、入れ替わりでシュンとククが部屋に入ってきた。
「奥様。お疲れ様でございました。枇杷亭のご夫婦は仲が悪いなんていう本家の馬鹿はいなくなりましたわ。」
「来月から取引先との宴会が始まります。取引先の前でもご夫婦仲の良さをアピールしてくださいませ。」
犬とフクロウは笑顔で告げるが、芙蓉は顔が引きつってしまった。
「え・・・旦那様はやっぱりわざと?」
「いえ、あれは何も考えておりません。いまだに族長は嫌だとわがままを言っておりますが、こんなにもご夫婦仲が良いのですから、誰も信じませんわ。お二人目が楽しみです。」
ククは大まじめだ。冗談だと言ってほしい。
「夫婦仲のアピールってもっと違うやり方があるでしょう?」
芙蓉は恥ずかしくて仕方ない。
「え!どんな方法でございますか?」ククとシュンは真剣な顔になる。
「・・・」芙蓉は思いつかない。
「ほかの候補者も同じことをされているの?」芙蓉の質問にククとシュンは困った顔をする。
そうだ。そもそも芙蓉だけ政略結婚ではなく誘拐婚だと思われているんだった。シュンから最初に聞かされた時は思わず笑ってしまったが、族長は雷を落としたのだ。周囲はみなそう信じているらしい。
さすがに誘拐はされてない・・・旦那様はきちんと身請けのルールに従って芙蓉を買ったのだから。
だけどなれそめを誰にも説明できないので誤解をとくすべがない。
芙蓉は買主の要望にしたがって妻のふりをしているだけ・・・人が人以外と夫婦になることはないのだ。




