転変
「芙蓉。まだいいだろう。」旦那様が不満そうな顔で芙蓉の腕をつかむ。
「そろそろ龍陽が起きる時間ですから。」
「起きてからでいいだろう。俺ならここからでも鳴き声が聞こえる。」
「でも・・・」
「ちゃんと2ヶ月我慢しただろ。」旦那様はそう言うと芙蓉を腕の中に引き戻して唇をふさいだ。
芙蓉は困った。産後、再び求めてくるようになった旦那様に、身体が回復するまでせめて2ヶ月は待ってほしいと頼んだのは確かに芙蓉だ。
でも、生後2か月をすぎたばかりの息子には3~4時間ごとに授乳が必要だ。それに生まれてから今までは起きたら常に芙蓉が側にいたのに・・・
ふいに旦那様の唇が離れた。
「ちっ、もう起きたのか」そう言って芙蓉を解放した。
芙蓉は飛び起きると寝間着を着てリュウカの部屋に戻った。
「奥様!お帰りなさいませ。おむつを替えたところです。」
シュンから大泣きしている息子を受け取り、芙蓉は授乳を始めた。
「ごめんね。龍陽。」
腕の中の小さな赤子は今日も可愛い。
「奥様。お飲み物をお持ちしましょうか?」
「お願い。冷たいのがいいわ。」誰かさんのせいで喉がカラカラだ。
シュンと入れ替わりで旦那様が部屋に入ってきた。
『もう寝てくれればいいのに。3回もしたのよ。』
芙蓉は思わず呆れた顔で旦那様を見てしまった。
「・・・息子と俺を見る目が違いすぎないか?」
「母親になるとはそういうものです。」
旦那様は不満そうな顔で椅子に座る。
「もうお休みになっては?明日も・・・トリが来るのですよね。」
「うん。それが終わったら芙蓉と寝る。」
「あと30分近くかかりますよ。」
「構わないよ。ここで待ってる。」
旦那様に察してくれと期待するだけ無駄だった。
『息子のそばにいたいのに・・・』芙蓉は小さくため息をついた。
「奥様。おはようございます。」
芙蓉が上体を起こしたので、シュンが寄ってきて小声で挨拶する。
時計を見ると朝10時だ。
「おはよう。私は何時に寝た?」
「授乳を終えて8時にお休みになりました。まだ若様は寝ていらっしゃいますし、お風呂に入られますか?」
「そうするわ。全身ベタベタ。」
あの後、旦那様に寝室に連れていかれ、朝方起きてリュウカの部屋に戻って授乳し、そのまま寝てしまった。
シュンは苦笑いしている。
「臭う?」自分でも汗臭いと感じるから鼻のいい獣人はなおさらだろう。
「奥様のせいではございません。紫竜の匂いが一番強いのが体液ですから。」
「え!そうなの?」
芙蓉は恥ずかしさで耳まで赤くなった。
「換気しておいて!」そう言って慌てて風呂場に向かう。
「なんだまた授乳中か。」旦那様がリュウカの部屋に入ってきた。
どうやら夕方のトリ退治が終わったようだ。ここ最近は昼前と夕方に襲撃があるらしい。
「もうすぐ終わります。守番の皆様のところにお連れになりますか?」
「いや、龍海も龍賢も疲れて寝たからいい。ん?終わったか。」
息子が乳首を離して旦那様を見ている。
「どうしたの?もういらない?じゃあお父様にげっぷさせてもらいましょうね。」
芙蓉は息子を旦那様に渡した。
「あら?どうしたの?」
息子は旦那様の腕の中で口をパクパクさせている。
「ふーん。雷気を食べているな。」
旦那様が息子を見ながら言った。
「ライキ?なんです?」
「雷を落とすと電気の残りかすみたいなのがしばらく身体の表面に残るんだ。紫竜以外には見えないらしいけど。龍陽は今、その雷気を食べてる。」
「え!食べて大丈夫なものなのですか?」芙蓉は心配で仕方ない。
「問題ない。そういえば父上が竜の子の大好物だと言っていたな。」
「そう・・・なのですか?」
芙蓉には何も見えないが息子は目を見開いて口をパクパクさせている。旦那様が指先を近づけるとそっちを向いて口をパクパクさせた。
5分くらい後、息子はげっぷをすると満足げな顔で寝てしまった。
この日から息子は毎日、旦那様の雷気を食べるようになった。守番の雷気を食べることもあるらしい。守番たちは大喜びし、我先にと食べさせようとすると旦那様が苦笑いしながら教えてくれた。
息子は相変わらず母乳もよく飲むので芙蓉は半信半疑だったが、体重はぐんぐん増え、生後4ヶ月になるころには8キロを超えるとても丸々とした赤子になった。
年が明けて間もないある朝、芙蓉は何かがぶつかるような音で目を覚ました。
朝日がカーテンごしに差し込み、寝室の中は明るい。
ドン!
さっきよりも大きい音が響き、寝室の木の扉が揺れる。
『なに?・・・龍陽!』芙蓉は飛び起きた。
リュウカの部屋にいる息子は無事だろうか?
「ったく騒がしいな。」
腕枕をしていた旦那様は不愉快そうに寝室の扉を見るとベッドから降りた。
「芙蓉。危ないから動くな。」
「龍陽が・・・」
「ああ、捕まえるから大丈夫だよ。」
「え?」
ドン!
さらに大きな音が響き、頑丈なはずの寝室の扉が先ほど以上に揺れる。
寝間着を羽織った旦那様が寝室の扉を開けた。
ピー
獣の鳴き声をあげながら紫の鱗に覆われ、羽が生えた1メートルほどの小竜が飛び込んできた。
小竜の首を旦那様がつかみ、寝室の扉を閉める。
小竜はバタバタと暴れて鋭い爪で旦那様の腕をひっかくが、旦那様には傷一つつかない。
芙蓉は恐怖で固まってしまった。
「こら、龍陽!お前もう転変したのか?芙蓉に近づきたいなら転変をとけ!」
旦那様は小竜を叱る。
『龍陽?』
芙蓉は驚きのあまり両手で口を覆った。
小竜は深紅の獣の瞳を芙蓉に向けるとピーピーと鳴いて暴れる。小竜の口の中に並ぶ鋭い牙をみて芙蓉は思わず顔を背けた。
と、聞きなれた赤子の泣き声がした。芙蓉が驚いて顔をあげると旦那様が赤子を抱いていた。
「やれやれ。芙蓉、もう大丈夫だぞ。授乳するか?」
「・・・」
芙蓉はじっと赤子を見る。口を大きく開き、大泣きしている小さな肌色の生き物は見慣れた息子だ。
「もう大丈夫だぞ。芙蓉を探して転変したんだろう。」
旦那様はそう言って赤子を差し出すが、芙蓉は頭が混乱して動けない。
旦那様は困った顔をして赤子を抱いたままベッドにあがり芙蓉の目の前に来た。
「俺もそばにいるから授乳してやってくれ。大泣きして敵わない。」
芙蓉は恐る恐る赤子の顔を触った。いつもの柔らかい肌だ。
芙蓉はようやく息子を抱くと授乳を始めた。
龍栄は竜の子の鳴き声で目を覚ました。午後の守番をつとめて枇杷亭の客間で寝ている時だった。目をこすりながら廊下に出て音のする方に向かうと、床に倒れた茶色い犬の獣人と青い顔をしたシュンが居た。
「何があった?」
「龍栄様!若様が転変なさり、抱いていたククが・・・」
ククは腕から血を流し、ぐったりして床に倒れている。
「若様は?」
「旦那様と奥様と寝室に。」
「そうか。」
龍栄は床に跪くと右手人差し指を獣の指に戻して鋭い爪で自分の左腕を刺した。一筋の血が流れる。その血をククの腕の傷にぽたぽたと垂らした。
転変した竜の子の爪には毒があり、成獣の紫竜の血が解毒剤となるのだ。
「龍栄様!ありがとうございます!ククはもう大丈夫でございます。」シュンがククの傷口をみながら声をかける。
「奥様の侍女を死なせるわけにはいかないからな。ククの部屋はどこだ?運ぼう。」
「疾風が参りましたので、運ばせます。龍栄様は止血を!すぐに絆創膏を取って参ります。」
「持ってきた絆創膏があるから大丈夫だ。お前はククについていなさい。」
龍栄は立ち上がると先ほどの客間に戻った。
「もう転変か・・・予想よりかなり早かったな。」龍栄は緑の絆創膏を貼りながら一人、客間の中でつぶやいた。
これで龍陽の守番は終わりだ。転変し紫竜の牙、爪、鱗を得た竜の子はもう弱者ではない。トリは捕食を諦めてもう寄ってこない。
「母上の予想は外れたな。龍希殿はいい妻を得た。」龍栄は安堵の表情を浮かべた。




