若様の嘘
『どうしてこんなことに?』
浮舟の眠気は吹き飛び、恐怖と疑問で一杯だった。
なのに、若様は左手で浮舟の風呂敷を持ち、右手で浮舟の手を握って歩いていく。
「もうすぐ執事が迎えに来るだろうから、大通りまで歩くぞ。」
若様は笑顔で告げる。
その声は昨晩と同様に優しい。
「どうしてあんな大金を?」
自分に30万円の価値などないのに・・・
「昨日、取引を終えたところだったからな。銀行に行かずにすんだ。」
若様はあっけらかんと答えるが、そうじゃないと浮舟は思う。
なぜ大金をどぶに捨てたのか?
「ああ、そうだ。さすがに遊女を買ったと言うと使用人たちがうるさいからな。この町の薬屋で働いていたところを連れて帰ったことにする。」
「は、はい。」
浮舟はそう答えるしかない。
「あの・・・浮舟はよくある源氏名ですので、芙蓉と呼んでください。」
「ふよう?」
「真名です。お気に召さなければ、新しい名前をお付けください。」
「いや、芙蓉と呼ぶ。浮舟よりもいいな。」
「俺の名前は・・・」
若様が言いかけた時だった。
「若様!」
男の声が響く。
「ひ!」
芙蓉は声の主を見て震えあがった。
ヒョウの獣人が近づいてくる。
なぜ獣人が町にいるの?芙蓉は愕然とした。
この世界には、人間と動物のほかに獣人がいる。獣人は人間より知能が低いが、人間の数倍から数十倍の体力があり、獣人の中には人間を捕食する種もいる。
そのため、人間の住む町は獣人が入ってこれないよう塀で囲い、門には護衛が置かれている。
ただし獣人相手に取引をする人間の商人もいるので、大都市には獣人と取引するための専用エリアを設けている。
しかし、遊郭があるのは専用エリアの真反対だったはずだ。獣人が入れるわけがない。
芙蓉はパニックになっていた。
故郷から遠く離れたこの町に連れてこられ、遊郭から出ることができなかった芙蓉は知らなかった。この町は獣人の町と隣り合っており、遊郭がある下層エリアと獣人の町の境界に塀はなく警備も手薄であることを・・・
もっとも、ヒョウの獣人は人間の町に侵入してきたわけではない。
芙蓉たちが境界を越えて獣人の町に入ってしまっていた。
いや、入ったのだ。
「疾風。よくここがわかったな。」
若様は動じる様子もなく、ヒョウの獣人に話しかける。
「探しましたよ。そちらのお嬢様は?」
ヒョウの獣人、疾風の金色の瞳が芙蓉を見る。
2メートルを優に超える獣人が目の前に立っていた。
「人族の芙蓉だ。連れて帰ることにした。」
若様が答える。
「また人族の町で夜遊びですか?ばれたらどうするのです・・・」
疾風は顔をしかめて若様を見る。
人族
獣人は人間をこう呼ぶ。
獣人にとっては人間も数多くいる獣人の一種族に過ぎないらしい。
冗談ではない。
人間と人外は別物だと芙蓉は物心ついた時から教えられてきた。
『嘘!?若様は人じゃないの?』
芙蓉は真っ青な顔で男の顔を見る。
どう見ても人間にしか見えない。身体も人間の男と全く同じだった。
「かなりおびえていますが、まさかさらってきたのですか?」
疾風は眉間にしわを寄せて芙蓉を見る。
「馬鹿いうな。かわいそうに働いてた薬屋でひどい扱いを受けていてな。でもちゃんと店主と話をつけてから連れてきた。」
若様はにやりと笑う。
「ああ、それで血の匂いが。こんなに小さな身体に酷いことを。苦労されてきたのですね。」
疾風の眉がさがり、同情するような表情になるが、違う。
確かに遊郭での嫌がらせは日常茶飯事だったが、今日の血は若様のせいだ。昨晩から合計4回も相手をさせられれば出血のひとつもする。
浮舟の客はほかの遊女が嫌がる遅漏ばかりで若い客ははじめてだったのだ。
「はじめまして。若様の執事をしております、ヒョウ族の疾風と申します。」
疾風は丁寧なお辞儀をするので、
「は、はい。」
つられて芙蓉も頭をさげた。
「車はすぐそこです。宿の者も心配しておりましたよ。」
「ああ。おいで芙蓉。」
若様に手をつかまれたままの芙蓉はついていくしかない。