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紫竜の花嫁  作者: 秋桜
第1章 枇杷亭編
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向けられた悪意

「奥様、これもお口に合いませんか?」茶色い犬の獣人が心配そうに芙蓉に尋ねる。

竜湖が連れてきた芙蓉の侍女、ククだ。竜湖に20年以上仕えたベテランらしい。

「いえ、食欲がないだけで・・・食べ物が悪いわけでは」芙蓉は青い顔で答える。


 3月になってもつわりは続いていて、昨日は気持ち悪さと身体のだるさで何も食べられなかった。

シュンとククがあまりにも心配するのでレモン水だけはどうにか飲んだが、今朝も固形物は食べられそうにない。


『梅干しがあればこのおかゆも一口くらい食べられそうなのに・・・』



「奥様。お好きなものでも故郷のものでも・・・何か食べられそうなものはございませんか?何でも仰ってくださいませ。あれは仕事を与えればちゃんと動きますので。」ククの言葉に芙蓉は苦笑いする。


『あれって・・・シュンもククも若様に厳しすぎない・・・』


一体何をしてこんなに嫌われているのやら。


「あ、いえ・・・ちょっと考えてみます。」

「ククさん、やはり手当たり次第にあれに用意させては?50・・・いえ100くらい並べれば一つくらい奥様の目に留まる物もあるかもしれませんし。」

シュンがとんでもないことを言い出した。

「あ、思いつきました。」芙蓉は正直に言うことにした。



「芙蓉。これで合ってるか確認してくれ。」その日の昼過ぎ、若様が紙袋をもってリュウカの部屋に入ってきた。

「ありがとうございます。あの・・・もしや若様自ら?」芙蓉は若様の黒い髪を見ながら申し訳なさでいっぱいになった。

「ああ、商人に頼むと時間がかかるからな。俺が人族のふりをするのが早い。」

「申し訳ありません。」

「なんで謝るんだ?妻が欲しがるものを用意するのは当然だろう?」若様は怪訝な顔をしている。


 人だったらまさに理想の夫ではないだろうか?


「これが奥様が仰っていたものですか?」ククとシュンが興味津々で紙袋の中身を机に並べる。

芙蓉が欲しがったのは梅干し、ゼリー、しょうゆだった。

どれも獣人の世界にはないらしい。

人が開発し、人しか食べないものだ。


『あ・・・』


芙蓉は茶色の小瓶を見る。オレンジ色のシールが貼ってあるが文字はかかれていない。

「買った店でこの小瓶を渡されたんだ。一緒に飲むものだと言っていた。」若様が芙蓉の視線に気づいたのか教えてくれた。

「奥様。これは何ですか?」シュンが首を傾げている。

「・・・」


芙蓉の頭に悪い考えが浮かんだ。


 次の瞬間、若様が小瓶をさっと手に取った。

「芙蓉。これは何だ?」険しい顔で芙蓉を見る。

「ちょっと若様!突然なんです?」シュンとククが抗議の声をあげる。

「これは毒か?」若様はじっと芙蓉を睨んでいる。


「・・・お腹の子には。」


芙蓉は正直に答えた。

遊郭で毎日のようにみていた薬・・・強力な堕胎剤だ。


パリン


と音がした。

若様は小瓶を握りつぶすと黙って部屋を出て行った。

 侍女たちは真っ青になってほかの食べ物も捨ててしまった。


『もったいない。』


そっちに毒は入っていないはずだ。毒入りなら堕胎剤をつける必要はない。

それでも恐ろしい顔をした侍女たちに声をかける勇気はなかった。

 結局、芙蓉は何も食べられず、食べる気にもならず、ベッドに横になっていた。


 かなり遠くで雷鳴のような音が聞こえ、思わずびくっとなる。

この間の雷鳴は恐ろしかった。かなり近くでしかも2度も鳴り響いたのだ。

怯える芙蓉にシュシュとシュンは本家で族長が落とした雷だと教えてくれた。


どうやら紫竜は雷を落とせるらしい。


今日の音はずっと遠くで鳴ったようだったから、若様には関係ないんだろう。

芙蓉は安心して目を瞑った。



~枇杷亭寝室~

 夜にもなっても若様の機嫌は直らなかったようだ。いつもは芙蓉が寝室に来るなり、抱きついて離れないのに、今日は枕に顔を突っ伏したまま動かない。


『別に若様は悪くないのに・・・』


芙蓉はベッドにあがって若様の隣に横になった。

「芙蓉。」

「はい?」

「自分の機嫌はちゃんと自分でなおすから、今夜もそばにいてくれないか?」


『立派だなあ。』


芙蓉は感心してしまった。人族の男なら憂さ晴らしに当たり散らすか殴るかしていてもおかしくない。

「若様が自分をお責めになることでは・・・見た目では分かりませんもの。」芙蓉は笑顔を作る。

「・・・違う。」

「え?」


「・・・芙蓉から殺気を感じた。」


「え!?」

芙蓉は声が裏返った。

真っ青になる。


あの時、一瞬だけ迷った・・・このまま黙って飲んでしまおうかと。


「あ・・・。」

さすがに鉄拳が飛んでくるだろう。芙蓉は思わず目を瞑る。


「・・・?」

若様は動く気配がない。


「どうして?」

芙蓉は沈黙に耐え切れず尋ねる。

「芙蓉は悪くないよ。紫竜の妻は夫が嫌いだから。」前も聞いた言葉だ。


 芙蓉は絶句した。

紫竜一族にはもう10年以上子どもが生まれていない。

妻の死産が続いて、妻を変えて・・・それは不幸な偶然の積み重ねではなかったのか?


『そんな馬鹿な!』


人が特殊なのだ。獣人では異種交配なんて珍しくない。獣人同士なら・・・芙蓉には獣人と神獣の違いが分からない。四大神獣・・・それは人にとっては神話の世界の話だ。紫竜という名前すら知らなかった。


 自分はそんなに若様を嫌っているのだろうか?


ちょっと違う気がする。芙蓉が嫌なのは怖いのは・・・自分の胎から人外が出てくることだ。

竜湖は人の姿で出てくると言ったが本当かどうか分からない。


「私は若様が嫌いなわけではないです。うまく説明できませんが・・・人の子を身籠っていても自ら子を殺す者もおります。私は弱い生き物ですから・・・向けられた悪意から逃げるのではなく・・・受け入れてしまうこともあるのです。」


意味不明だろう・・・芙蓉にだってよく分からない。だけど、何としてでも堕胎しようという強い意思はもう芙蓉にはなかった・・・遊郭に居たときにはその覚悟があったのに。


「・・・」


 若様の右手が伸びてきて芙蓉の身体に触れる直前で止まった。芙蓉はその手を両手で包むと自分から身を寄せる。

若様はいつもように芙蓉を抱きしめて腕枕をしてくれた。



 龍希は翌日、本家に来ていた。族長に呼ばれたのだ。

「昨日、雷で人族の町を1つ潰したそうだな。何事だ?」族長は龍希を睨む。


「妻子に向けられた悪意に報いたまでです。」


「は?」

族長の身体から雷気(らいき)が発せられた瞬間に、龍希は自分の雷気をぶつけて相殺した。

また本家に雷が落ちたら大騒ぎになる。


「このことはご内密に。妻には人族が作った食べ物が必要なのです。」

「しかし!お前!」

族長は歯をむき出しにして怒っている。

「しかるべき報復はしました。ここは俺の顔をたててください。」龍希は族長を睨む。


「・・・分かった。」


5分以上の睨み合いの末、族長が折れた。

「俺が至らないばかりにご心配をおかけして申し訳ありません。」龍希は頭を下げる。

「竜湖に毒見役を調達するよう言っておく。朱鳳にはつてがあるそうだからな。」

族長は低い声でそう言うと応接室を出て行った。


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