孔雀の母
「雪が降ってる!」芙蓉は廊下の窓から外をみて驚いた。
『どうりで寒いと思った。』
夜明け前に目が覚めてしまい寝間着を羽織ってトイレに行ったところだった。
枇杷亭の廊下は、壁に等間隔に配置された燭台にロウソクが一晩中灯されている。
芙蓉の生家ではロウソクは貴重品だった。信じられない贅沢だ。
寝室の扉を静かに開けて閉める。
若様を起こさないようベッドにそっと潜り込んだ・・・つもりだったが、腕が伸びてきて抱きしめられた。
「身体が冷たいな。」頭上から声がする。
「申し訳ございません。起こしてしまいましたか?」
「隣からいなくなればな。」
芙蓉の寝間着が脱がされる。
「だめです。冷たいですよ。」
芙蓉の手足は短時間で冷え切っていた。
「ああ、すぐに温かくしてやる。」
抱きしめられたまま身体を回され、温かい素肌の下敷きになった。
「ん・・・」冷えた首を温かい舌が滑り、思わず声が漏れる。
「もう・・・」芙蓉は困ったように微笑むと両手で深紫の髪をなでた。
その日、雪は昼を過ぎても降り続いていた。
芙蓉は枇杷亭の庭にある屋根付きの四阿に居た。屋根は雪で薄く覆われていたが、四阿の中にある石製の椅子は濡れていなかった。
芙蓉はその椅子に腰かけ、振り続く雪をぼんやりと見ていた。顔と耳が寒すぎて痛い。
だけど芙蓉は今日だけはその痛みを感じたくて外に出てきた。故郷の厳しい冬を思い出すために。
芙蓉の故郷は人族の地図上では北側にある中規模の町にあった。11月の終わりから雪が降り始め、12~2月までほぼ毎日雪が降り積もっていた。この時期は外から物資が入ってこないので、町の商人たちは連れ立って町の外に買い付けに行っていた。
昨年の12月、芙蓉の父は南に20キロほど離れた町にある薬草の取引先に向かって旅立った。薬草の仕入れとともに、その店の長男と芙蓉の縁談をまとめるためだった。
「1月中には帰る。」そう言って近所の商人たちと旅立った父は2月になっても帰ってこなかった。雪がすっかり解けた3月、父の名前が書かれた金属製の通行証だけが帰ってきた。
父たちは道中、強盗に襲われ雪が解けて死体が見つかったらしい。遺骨は現場近くの墓地に埋葬されたそうで、故郷の墓には父の通行証だけが入っている。
その墓にも芙蓉は二度と参ることはできない。
『雪の下で何ヶ月も・・・父はさぞ寒かったろう。』
芙蓉は北の方向を向いて両手を合わせ、目を閉じる。一筋の涙が頬を伝った。
目を開けて顔をあげる。
「ふう。」白い息を吐いた。無意識に息を止めていたようだ。
「芙蓉様。」
背後から呼ばれ、芙蓉は驚いて振り返る。
鶴のばあやが四阿の中に立っていた。
「いつの間に?」全く気づかなかった。
「若様には内緒にしてくださいませ。ばあやが折檻を受けます。」鶴のばあやは無表情で告げる。
「ごめんなさい。すぐに戻ります。」芙蓉は慌てて立ち上がった。
「何をされていたのですか?」
「亡くなった父に黙とうを・・・」芙蓉は素直に白状した。
「もくとう?それは雪の中でするものなのですか?」
「私の父の場合は。」
別に決まりはないのだが、芙蓉はそうしたかった。
「それで若様の外出中に外に?若様は人族の風習を否定されたりしませんよ。」ばあやは少し怒っているようだ。
「ええ。でも一人で黙とうしたかったのです。」芙蓉は目を伏せる。
「もくとうは、私にもできますか?」
意外な質問に芙蓉は驚いてばあやを見る。
「今日は大奥様の命日なのです。」ばあやは目を細める。
『大奥様。若様の母親のことだろう。』
芙蓉はばあやに黙とうのやり方を教えた。ばあやは西の方向を向いて黙とうをする。
芙蓉は驚いていた。獣人が死者を弔うとは思ってもみなかった。
「芙蓉様。」
「は、はい。」
「昔話に少し付き合ってくださいませんか?ここではなく、あたたかい食堂の中で。」
「ええ、私でよければ」
二人は連れ立って建物に入った。
「は?」芙蓉はばあやが持ってきた写真を見てぽかんと口を開けた。
写真には赤紫の豪華なドレスを着た孔雀の獣人と、その獣人に抱っこされている人族の子どもが写っていた。いや人ではない。髪の色と顔の感じからおそらく幼いころの若様だろう。
「この方が・・・大奥様ですか?」
「はい。美しい茶色の羽をお持ちでした。」ばあやの目はうるんでいる。
『嘘でしょう?若様は孔雀の獣人なの?いや待って。父親は違う種族の獣人なのかも・・・きっと若様は父親似なんだわ。』芙蓉はそう思うことにした。
あれ?でも父親が写ってる写真は一枚もないな・・・
「もう10年になります。明日には大奥様の思い出の品を燃やさねばなりません。」
「え?」芙蓉は驚く。
「孔雀族の風習です。死後10年を過ぎるとすべての遺品を処分するのです。」
ばあやは目に涙をためて美しい彫刻が施された木の箱をなでる。写真が入っていた箱だ。
「美しい箱ですね。」芙蓉はティッシュを渡しながら言った。
「大奥様の嫁入り道具でございます。とても大切にされておりました。」
ばあやはそう言うと箱の蓋を開けて中身を取り出し、丁寧にテーブルに並べた。
写真が5枚、金属でできた足環、100円玉サイズの紫色のウロコのようなもの、何かが入った黒の巾着袋。箱の中身はこれだけだった。
「巾着には何が入っているのですか?」芙蓉は好奇心に負けて尋ねる。
「どうぞお開けください。」ばあやは目を伏せる。
芙蓉は紐をほどいて真っ黒な巾着を開ける。
濃い紫の鉱石でできた花のペンダントトップが入っていた。昔カタログで見た紫水晶に似ている。
「綺麗」芙蓉は思わずつぶやいた。
紫水晶の実物なんて初めて見た。
「お館様が贈られたリュウカでございます。」
「リュウカ?」芙蓉は首を傾げる。
この花の名前だろうか。初めて聞く言葉だ。
「いずれ若様がくださいますよ。」ばあやの声はいつもより低い気がした。
「え、いえ。」芙蓉は慌てて首を横に振る。
色の濃い紫水晶は宝石と同じくらいの値段だと聞いたことがある。どう考えても芙蓉がもらうものではない。
芙蓉はリュウカをそっと持ち上げ慎重に巾着袋に戻した。
傷つけないように集中していたので、ばあやが憐みの表情で芙蓉を見ていることに気づかなかった。
『大奥様もきっといらないと嫌がったのだろう。』
カカは大奥様が嫁入りした際に大奥様付の侍女になったので、リュウカをもらった場面は見ていない。だが容易に想像できた。
嫁入り後、大奥様は視界に入れたくない、でもなくすわけにはいかないとリュウカを黒い巾着袋にしまい込んでいた。お館様との外出の際にはいやいや首から下げていたが、大奥様には忌々しい首輪に見えていたに違いない。
カカの今の主は若様だ。若様を第一に考え行動せねばならない。
それでもばあやは哀れな人族の娘に同情を禁じ得なかった。




