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紫竜の花嫁  作者: 秋桜
第1章 枇杷亭編
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芙蓉の選択

「若様。もう自分で歩けます。申し訳ございませんでした。」

芙蓉はようやく声が出せるようになった。

「気にしなくていい。このまま馬車まで運ぶぞ。」若様は芙蓉を抱えたまま歩き続けるが、

「いえ、あの、お手洗いに・・・」

芙蓉は森の中にある建物を見る。

「ああ。」

若様は笑って芙蓉を降ろした。

「ここで待っている。」

「はい。すぐに戻ります。」

芙蓉はお辞儀をして、小走りでトイレに向かった。

 


 芙蓉がトイレに入ったのを見届け、龍希は懐からキセルを取り出した。

「やあ、枇杷亭の若様ではありませんか?」

男の声に龍希は驚いて振り返った。

「ああ、朱鳳(しゅほう)の・・・」

「はじめまして。鳳雁(ほうがん)と申します。龍海(りゅうかい)殿にはいつもお世話になっております。」

鳳雁は頭を下げる。

「ご丁寧にどうも。龍希です。朱鳳の皆様にはいつもご贔屓いただき感謝しております。」

龍希は営業スマイルを浮かべて軽く頭を下げた。


朱鳳一族はシリュウの主要取引先のひとつだ。

龍希の担当ではないが、無下に扱うわけにはいかない。


「若様は西のご担当と伺っておりましたが、こんなところでお会いできるとは。お一人ですか?」

鳳雁は周囲を見渡す。

「ええ、執事は車の番です。」

龍希は嘘をついた。


芙蓉の存在を知られるわけにはいかない。

まだシリュウの族長にすら報告していないのだ。

龍希は焦った。


「鳳雁殿もお一人ですか?」

「いえ、妻子にせがまれましてね。森の向こうに出店がきておりまして。珍しい種族もいるのですよ。」

「そうでしたか。お引止めして申し訳ない。」


『早く妻子のところに行け。』


と龍希は遠まわしに言った。

「いえいえ。長い買い物に付き合いきれず、避難していたところです。」

そう言って鳳雁はキセルを取り出したので、龍希は思わず舌打ちしそうになった。



 芙蓉がトイレから出てくると、赤い鳥の獣人と話している若様が目に入った。


『お知り合いかしら?』


芙蓉は立ち止まった。


『話の邪魔をしてはいけない。それにしても、あんなに赤い鳥は初めて見た。なんて種類だろう?』


芙蓉がぼんやりとトイレの横の紅葉を見ていると森の奥からかすかに子どもの泣き声が聞こえた。


『嘘。こんなところに子どもがいるはずない・・・』


でも気になる。

芙蓉はちらりと若様の方を見た。キセルをふかして話込んでいる。


『まだかかりそう・・・』


芙蓉は泣き声がする方に歩き出した。



トイレから10メートルほど離れただろうか。

紅葉の木の根元で子どもがうずくまって泣いている。


「お嬢ちゃん。どうしたの?」

芙蓉は思わず声をかけた。

「お姉ちゃんも人間?」

子どもはびくりとして顔をあげる。

「そうよ。私は芙蓉っていうの。あなたは?」

芙蓉は子どもに笑いかける。


「すず。5さい。」


すずは右手で涙をぬぐった。

「お父さんとお母さんは?」

「わからない。どこ?」

すずは鼻水をすする。

「紅葉を見に来たの?」

「ううん。じゅう人にししゅうをうりにきたの。」

芙蓉は驚いた。


ここは対獣人取引の専用エリアじゃない。

自殺行為だ。親はおそらく獣人に殺されたのだろう。


芙蓉は唇を噛んだ。

かわいそうだがどうすることもできない。

むしろここにいては芙蓉も危ない。人食いの獣人がまだ近くにいるかもしれない・・・


がさがさ


落ち葉を踏む音が聞こえて、芙蓉は飛び上がった。すずが怯えて芙蓉の着物にすがりつく。


「すず!」


若い女の声が響いた。

「おかあさん!」

すずが女に駆け寄る。


『母親は生きていたの?よかった~』


「え!?明日香(あすか)?」


芙蓉は母親の顔を二度見した。

呼ばれた母親は怪訝な顔をして芙蓉を見ると、


「え、もしかして芙蓉?」


明日香は驚いた顔になった。


「どうしてここに?」


二人の声が重なった。



 同じ頃、龍希はやっと鳳雁から解放されていた。


「あー。やっぱり逃げたか。」


龍希は芙蓉が離れていくのを匂いで気付いていた。

「まあ仕方ないな。」


人族が他種族を嫌うことは知っていた。

騙して連れてきたようなものだ。

もとは興味本位で人族の娘を一晩買ってみたかっただけだったのだが・・・

瘦せこけて傷だらけになりながら、笑顔を作り懸命に生きていた人族の娘を見殺しにできなかった。

あの店の女たちからは病の匂いがした。あそこには置いておけなかった。


それなのに、もう十分、芙蓉は自分に尽くしてくれた。


身請け金以上の働きをしてくれたのだから、このまま自由にしてやるべきだろう。


龍希はそう思って一人でその場を離れようとしたのだが、足が動かない。

龍希は苦笑いする。


「参ったな。」


獣としての本能は芙蓉を連れ戻せと言っている。



「7年ぶり?こんなところで会うなんてびっくり!旦那が春に商品を盗られてね。危ない商売でもしないと年明けに義妹が売られそうなの。でも、すずを見失った時にはもうダメかと思ったわ。」

明日香は愛娘を抱きしめながらそう言った。


明日香と芙蓉は幼馴染だった。3歳年上の明日香は16歳で遠い町の商人に嫁ぎ、以来会っていなかった。


芙蓉は困った。まさかこんな場所で知り合いに会うとは思ってもみなかった。


『早く若様のもとに戻らないと・・・』


「芙蓉はなんでこんなところに?たしかこの夏に嫁に行ったっておばさんから聞いたけど。」

明日香の言葉に芙蓉は顔を歪めた。

故郷の母親の顔が浮かぶ。

「え?どうしたの?」

「嫁じゃないわ・・・奉公に出されたの。兄の結納金を作るために」

芙蓉は吐き捨てるように言った。


「は?え?」


明日香は目をぱちくりさせる。

「もう戻らなくちゃ。じゃあね。」

芙蓉は踵を返して走り出した。

「え!待って!」

明日香が叫ぶが、芙蓉は振り返らなかった。



匂いが近づいてくる。

なぜ?


まだその場から動けなかった龍希は驚いた。

すぐに走って戻ってくる芙蓉の姿が見えた。


「若様!申し訳ございません。迷子に気をとられて・・・」


芙蓉は龍希のもとに駆け寄ってきた。

肩で息をしている。


「な、なんで?人族のもとに帰りたかったんじゃ?」


龍希は理解ができない。

他種族を嫌うのは人族の本能ではないのか?


「まさか!絶対にいやです!」


芙蓉の声に迷いはなかった。

強い意志を宿した目で龍希を見る。


「若様のそばにおいてください!」


芙蓉はそう言って、両手を龍希の左腕に回して腕を組んだ。



数ヶ月前まで芙蓉は疑ったこともなかった。生家に尽くし、結婚して子どもを産み、夫の家族に尽くすのが唯一の正しい生き方で女の幸せだと。

だが今は違う。

明日香を羨ましいとは思わなかった。明日香は夫の商売を手伝うために危険な場所まで来たのに・・・なぜ明日香の夫は妻子を探しに来ないのか?


人族の男にとって妻子など都合のいい道具でしかない。


芙蓉はそんな男に使いつぶされるなんて嫌だ。

獣人の使用人でも妾でもいい。

若様は芙蓉の働きを評価してくれ、衣食住に困らないどころかそれ以上の待遇をしてくれる。

ただで尽くされて当然なんて考えはない。芙蓉を道具ではなく生き物として扱ってくれるのだ。

だから・・・芙蓉は生まれて初めて自分の居場所を自分で選んだ。


この選択が自分の自由を縛ることになるとは知らずに・・・


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