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その日から、本当に王妃様は私にいろいろなことを教えてくれた。今までの生でも王太子妃、王妃になったことはあったけれど、こうした王妃の実務に必要なことは教えてもらったことがなかった。名目上の王太子妃、王妃ではなく本物の王妃になるんだ。その実感は王妃様の授業を受けるたびにわいてきた。
そうしたら、もしかしたら私はユースルイベ殿下からの想いだけにすがって生きていかなくてもいいのかもしれない。そこでふと気がついた。どうしてこんなにも強く、誰かと心通わせることを望んでいたのか。
今までの私にとって、ギフト以外の存在価値は誰かにとって大切な存在になること以外考えられなかった。ただの一個人として見てもらうためには。
でも、ギフトを通さないで『王太子の婚約者』として扱っていただいたおかげで、今までになかった選択肢が増えてきた。もしかしたら、王妃として私自身を見てもらえるかもしれない、と。
そんなある日、王城へやってきてから初めてギフトで夢を見た。それはおそらくユースルイベ殿下の即位式の様子。頭上に王冠を抱く殿下は国民に手を振っている。殿下のすぐ後ろにはパルシルク殿下の姿も見える。2人ともその表情は穏やかで、何の確執もないように見える。良かった、無事に仲良くなれたんだ。
ほっとしていると意識が浮上する。目を開けてから、既視感に襲われた。どこかで見たことがある気がする、あの画は。どこで視たんだろうか……。
今日の画は音が聞こえず、短いものだったからかそこまで負担にはならなかった。体はだるく熱は出ているけれど、頭痛はあまりない。いつもこれくらいならいいのに。
窓の方に目を向けると、まだ外は薄暗い。起床の時間にはかなり早いだろう。もう起きてしまうか……。けれどどのみち誰かが来たら今日は一日ベッドの上の住人になる気がする。だったら、少しくらいいいかな。
クローゼットの中から羽織るものを取り出す。外の空気を吸いたいけれど、部屋の外に出るとすぐに見つかってしまうから、ベランダにでも出ようかしら。温かい紅茶を野見たけれど、さすがにこの時間に人を呼ぶのは気が引ける。それは朝まで我慢かな。
寝室の隣、ユースルイベ殿下の部屋とつながっている部屋へと足を踏み入れる。ヒトの気配もないそこは、とても静かで冷たい。私が起きるときはすでに暖かなその部屋は、誰か、おそらくアンナの手によって整えられていたんだ。
そんなことを考えながら、ベランダへと向かう。いつもの部屋から見えるほど立派なものではないが、丁寧に整えられた庭園がここから見える。柵に手をついた後は、ぼーっとそれらの花々を眺めていた。
この城に来てから、ユースルイベ殿下の噂がよく耳に入る。長年城を空け、帰ってきたと思えば立太子。ここにいなかったこともあって、おそらくパルシルク殿下よりも他貴族との交流が少ないのだろう。
表舞台に姿を現さないユースルイベ殿下ではなく、パルシルク殿下が立太子されるであろうことは、おそらくここで働く人、もしかしたら貴族全体にとって誰もが考えていたこと。それがひっくり返されて納得いかないものがいる。『王太子』と築いていた今までの関係性がまっさらになり、すべてのものが一から関係を構築する。今までうまく取り入ることができていなかった者たちにとっては歓喜。
あるものは嬉々として、あるものは憎々し気に。人によってその根底にある感情は違えど、行動は一緒。誰もが王太子となったユースルイベ殿下に取り立ててもらいたいと考えている。
そういったことがよくわかる噂ばかりだった。
対して王太子の婚約者として指名された私に対しては、多くの人が近寄りがたさを感じているようだ。アンナをはじめとした専属侍女はよく仕えてくれている。だけれどほかの人はどうにも会話が続かない。このギフトのこともあって、畏敬を持ってくれているものもいれば、ぽっと出の私が王太子の婚約者に収まったことが許せないというものもいる。どちらもまあ、仲良くは慣れないわよね。
今までの記憶からしても、いかに社交が大事かはわかっている。せっかく今世は王太子妃として働けるかもしれないのだ。どうにかつながりを持たなければ。ここはひとつ、王妃様に相談して茶会でも開いてみるべきかしら。
そんなことをつらつらと考えていると、体が冷えてしまったようで小さくくしゃみをする。先ほどよりも辺りが明るい。もう日の出の時間だろう。そろそろベッドへ戻らないと。おそらく熱も上がってきているようだし、頭もぼーっとしてきた。
ふう、と一息ついて部屋へと戻る扉に手をかける。その時、隣からガチャリと扉が開く音がした。まさか。思わず音の方に顔を向けるとそのまさかだった。隣の部屋からユースルイベ殿下が顔を出したのだ。どうしてこんな時間にここに。そう疑問を口にすることもできず、固まってしまう。すると、ユースルイベ殿下の視線がふいにこちらに向いた。途端、その目が見開かれる。
「どうしてここに?
……顔が赤い、もしかして熱が⁉」
すまない、と謝ったから何かと思って彼を見ていたら、まさかの柵を乗り越えてこちらにやってくる。
「え、え⁉
何をやっているのですか⁉」
止める間もなくこちらにたどり着いた殿下が、ぱっと私を抱き上げる。絶対重いのに。文句を言おうと顔を見上げる。でも、私は結局殿下に文句を言えなかった。私を抱えた殿下の顔が、以前の彼と重なる。馬に蹴られそうになっていた私を助けようと駆け寄ってきてくれた時のルイさんの顔と。途端、口にするまいと押さえていた思いが、するりとこぼれる。
「どうして、どうして、あなたがユースルイベ殿下だったのですか……。
どうして、ルイさんではないのですか。
私は……、ここに来たくなんてなかった。
誰も私自身を見てくれないこの冷たい牢獄になんて。
きっと殿下も皆と、サラシェルト殿下と、同じです。
こんなギフト、いらなかった……、って言い切れたらいいのに。
あなたなんて嫌いだと、心を返してもらわなくていいと、そう心から思えたらよかったのに。
でも、ルイさんみたいな顔を見るたびに思い出してしまう、期待してしまう。
私を……見て、……」
あいして、その言葉は音にならなかった。いつの間にか涙がこぼれていく。あれ、私は何を口走っていたのだろう。どうして泣いているのだろう。どうしてこんなに苦しいのだろう。わからない。けれど、この腕の中はあたたかくて、なんだか安心できることだけはわかる。
急に瞼を重く感じる。それに逆らうことなく、私は目を閉じた。
意識が完全に落ちる直前。向き合わなくては、と固い声が聞こえた気がした。