ホーリック家の呪い/カナリア・ホーリック①
カナリアの過去のお話(長いので話を二つに分けました)。時間がある時にでもお読みくださいませ……。
『正しく引き継がれた貴族の血を持つ者は、生まれながらにして高貴である』
幼い頃より母、フローレンス・ホーリックからそう教えられた私は、その言葉を信じて疑わなかった。母は自分にも他人にも厳しくて神経質な人ではあったけれど、教養のある人でもあったから、周りは皆、ホーリック侯爵である父よりも母を慕っていた。
母の言葉は絶大で、家令や家政婦長、それにメイド、馬丁に庭師、家庭教師、料理長など両親に雇われた全ての者にもその言葉を言い続けていた。
また母は、私を侯爵家に恥じない立派な淑女として育てるために、何かにつけて口を出す教育熱心な人でもあった。教育は環境から、というのが母の教え。母は金で雇った全使用人にも、娘の私と同じように教育環境を整えたから、行動的で前衛的な人でもあった。
その甲斐もあり、ホーリック家で仕事を学べばこの先どこの屋敷に雇われても恥ずかしくない、一流の使用人になれるとさえ噂される程。
そんな凄腕の母がいるのだから、父が霞んで見えるのも仕方ない。
私はそんな母を尊敬していたし、躾が行き過ぎていても恨む事はなかった。
母は、自由奔放で我が儘だった私の尻や手足を叩く事で、私らしい自由な部分を一番最初に切り落とした。これは、淑女教育前の教育では、当たり前の事。それが出来なければ、女学校へ行く資格はない。
口にする食べ物も、身に付ける衣装や宝飾品も、受ける教育も、全て母が選び取った物を私も選ぶ。押し付けではなく、私も母と同じ物を同じように選んだのだと信じて疑わなかった。
そんなある日。
母の城であるホーリック家に、父の弟で婿養子としてブルーネット家に迎えられた叔父様が、喜々として報告しにやって来た。貴族として信念も矜持も誇りも感じられない叔父様の顔と言ったら、まるで小商人のように下卑た顔。
叔父様に小金を渡して得た報告は、ホーリック侯爵、つまり父が愛人相手に現を抜かしているという、何ともつまらない報告だった。
「そんな噂が出るようでは、フローレンス・ホーリックの牙城も随分土台が緩んでいますな。兄上の夜の教育まではさすがに出来なかったか……ハハッ。これを機に婦人は主人を立てて、慎ましやかに生きてみるのも一興でしょう。ま、出来損ないの兄に変わり、私は役に立ってみせますがね。欲しい情報があれば、また……」
誰に対しても厳しい母が、その時は珍しく、叔父様の言葉に言い返さなかった。だから、私が母の代わりに教えてあげた。
「あら……。母の教えでは、愛人の尻を追いかけまわしている父でさえ、高貴だわ。正しく引き継いだ血が父の身体にも流れていますから。もちろん、小金を貰って喜んでいる叔父様にも、同じ血が流れていますわ」
私の言葉に目を真ん丸にして驚いた叔父様は、草食動物並みの速さで逃げて行った。
この時、叔父様の様子を見て初めて母の教えに違和感を覚えた事や、また叔父様の前で母の教えを口にした後、爽快感のような感情が心を満たしている事も、同時に気付いてしまった。
その後から今に至るまで、矛盾と葛藤に悩まされる事などその時は知る由もなく。
「お母さまの教えは正しい……。正しく引き継がれた貴族の血を持つ者は、生まれながらにして高貴である。正しく引き継がれた貴族の血を持つ者は、生まれながらにして高貴である。正しく引き継がれた貴族の血は……」
内側から滲み出る声を聞かないように、その日から毎日、母の教えを諳んじる。そうすると、少しの間だけ心の靄が晴れた気がした。八歳の時の事だった。
それから約二年後。
淑女教育の成果が花開き始め、言葉や思想、所作にも表れてきた頃。叔父様は再び屋敷を訪れた。厚顔をぶら下げて、叔父様は愛人が父との子を身ごもったと報告した。
その時の母の様子は、動揺を見せる事もせず、ただ鼻で笑っただけ。
母は、屋敷に通いで仕事をしている馬丁から、叔父様の情報とは少しばかり違う話を聞いていた。母が信頼に足ると考えたのは、教育の届いたホーリック家で仕事をしている馬丁の方。信憑性のない話を小金と引き換えに売り渡す叔父様は、その日を境に、屋敷に足を踏み入れる事はなかった。
馬丁の話は、愛人を身ごもらせたどころか、子供が生まれて十一か月は経つとの情報だった。母は馬丁の話を信じたけれど、父のした事を許した訳ではない。母の怒りは表情や言葉は言うまでもなく、髪先や爪先にも表れた。
溜まっていた淀みが溢れ出すように、日常がひっくり返る。
それ以来、父と母の言い争う声が毎日のように屋敷に響き渡った。
耳を塞ぎたくなったのは、たった一日だけ。すぐに状況に慣れ、両親を見ても何も思わなくなった。矛盾や葛藤に蓋をしてしまえば、後は諳んじるだけ。
高貴である者同士の意見が食い違っていようとも、互いを罵り暴言を吐こうとも、高貴である事には違い。日に日にやつれていった母も、屋敷にあまり帰って来なくなった父も、高貴であると信じる事が、私の心を保たせる方法だったのかもしれない。
「カナリア……。もう父は高貴な者ではありません。口を聞いてはいけませんよ!」
精神に異常をきたし遂には寝込んでしまった母が、たまに我に返ったように言った。私はその度に同じ事を質問する。
「血は絶対ではないのかしら……? お母さま、お父さまと愛人の間に産まれた赤ちゃんは、高貴な者?」
「汚らわしい! 汚らわしい! 高貴な血が卑しい血と混ざり、腐り落ちるわ! 血を抜かなければぁあああ!!!」
「高貴ではない……って事ね。うん、分かったわ」
何かが芽吹く音がした。きっとそれは、呪いの言葉が私と共に成長する音……。
◆
『正しく引き継がれた貴族の血を持つ者は、生まれながらにして高貴である』
母が死ぬ前に言った言葉もまたそれだった。屋敷中に聞こえるように、大声でその言葉を叫び歩く。ホーリック家とそこで働く者たち、また娘である私に対して、呪いの言葉として刻み付けていく。
喚き散らした後、母は二階から真っ逆さまに落ちて、そのまま運良く死んでしまった。医者曰く、二階の高さくらいでは中々死には至らないとの事だった。母は教養があり賢い人だったから、頭を打ち付けた飛び降り方を敢えてしたのかもしれない。
母の死後、屋敷の至る所に黒い布が被せられ、母の遺品や肖像画もまた黒のベールに覆われた。しんみりとした屋敷の中で、父だけは異様に元気だった。父は、母をどれ程愛していたかを周りの者に語り、母がどれ程ホーリック家に尽くし貢献したかを印象付けて、体裁を整えた。
父の時代の幕開けである。
しかし、このホーリック家の土台が崩れかけようとも、屋敷が母の牙城であった事を忘れてはいけない。
周りの貴族が父の言葉に惑わされようとも、私を初め、母の教育の賜物である家令や家政婦長、それにメイド、馬丁に庭師、家庭教師、料理長等、雇われた全ての者は、誰も父の言う事を信じてはいなかった。
皆、表情には出さないけれど、母の教えを頑なに守っている。
父だけがその事を知らなかった。
愛人だった人を後妻という関係に変えて過去を清算したつもりの父は、母の死後、侯爵家として恥ずかしくない振る舞いをするようになった。そんな事を今更しても遅いのだと気付かない父は、見ていて憐れだった。
お義母さまは元々貴族ではなかったから、贅沢品に囲まれる生活にすっかり脳をやられてしまい、下賤な本性を曝け出すのにそう時間はかからなかった。義妹も成長し言葉を覚えると、お義母さまにどんどん似ていった。可愛くない部分が大半を占める中、彼女の髪色だけは嫌いじゃなかった。
中途半端ながらにも、血が引き継がれている。
――――やはり、血が足りなかった。そうだわ、血はどうにもならないけれど、今度は私が教育者として、母の代わりになれば良いのよ。
天啓のように閃いた私は、その日から母の真似事をする。父に代わり、ホーリック家の全てを盤石なものにしていく。
『正しく引き継がれた貴族の血を持つ者は、生まれながらにして高貴である。また、正しく引き継がれていない血を持つ者は、生まれながらにして下賤である』
呪いのように、屋敷の隅々にまで行き届くように、私は何度も何度も諳んじる。
貴族の血をお義母さまを通して義妹にあげ、すっかり落ちぶれた半貴族の父。
母から父を奪い、下賤の証明をしてみせた新しいお義母さま。
環境や教育に恵まれず、貴族の血を濁らせてしまった義妹。
この三人に、繰り返し繰り返し教え込む。この屋敷で働く使用人たちと共に……。
◆◇◆
舞踏会事件の尋問が終わると、リリアム・クロッカス様とロメリア・グレイスが仲睦まじく出て行った。ジル殿下にだけ挨拶をして、私には一瞥しただけ。挨拶されたらされたで、惨めになってまた憤慨したかもしれないけれど、本当に気に入らない。
もしかしたら、ロメリアは見抜いていたのかもしれない。今の私に何を言っても無駄である事や、私がロメリアに対する評価を変えるつもりがない事に。
まさかだとは思いたい。あの酔っぱらい令嬢がそんなに深く物事を考えている訳が……!
揺らめく炎の如く、私の心は燃えていた。二人が立ち去った後も扉を見続けていた私に、ジル殿下がお声をかけてくださった。もう一度、席に座るように促され、他愛無い話をする事になったのだ。その話の中で、私が“ある事”に執着しているとジル殿下の慧眼に見破られ、その原因を辿るうちに私の生い立ちまで話が広がってしまった。
それで、私は「ホーリック家の呪い」について全てを話す事に決めた。長くて重くて退屈だとも言える話をジル殿下は静かに聞いてくださった。
「それが私、カナリア・ホーリックの全てですわ」
一通り淡々と話し終えると、ジル殿下は私を真っ直ぐに見つめた。誤解されてもおかしくない話、いいえ、誤解ではなく紛れもない真実でも、いくらでも尾ひれを付けて私を危険な人物像に仕立て上げる事が出来そうな話なのに、ジル殿下は心の距離を置くどころか関心を寄せたような目をして、微笑んでいるように見える。
「それは随分と根深い呪いだな」
「……ジル殿下。私如きに時間を割いて相談に乗ってくださった事、感謝致しますわ。その上でお聞きしたいのですが、私の考えや思想はやはり歪んでいるとお考えになりますか?」
殿下は、殊勝な人。こうして面と向かって話せる事さえ奇跡なのに、そんな人にホーリック家の呪い話をしてしまったなんて、恥知らずも良い所……。しかも、意見まで求めてしまうなんて、烏滸がましい。
唇を噛み締めると、血の味がした。
カナリアの言葉で「私」=わたくしと読みます。全部にルビは振っていません。面倒で……。お許しくださいませ。




