不穏の足音
「おはよう、毒蜘蛛」
リリアム様と結ばれた次の日の朝、私は毒蜘蛛の名前を初めて声に出して呼び、朝の挨拶をした。起きるまでベッドの片隅で待っていたと思われる毒蜘蛛が、私の声に応えるようにゆっくりと足を動かす。毒蜘蛛の身体は極細の毛に覆われていて、手は光沢のある紫がかった瑠璃紺。何をするにも動きはゆったりだから、初めて見た時はそれが怖かった。
今はどうだろう。むしろそれが可愛いとさえ思う。恋愛フィルターがかかっているからなのか、それとも多幸感で包まれているからなのか。目に映るもの全てが五割増しという魔法にかかっている。
「そっか、私。昨日の夜……ついに……フフッフフフッフフッッ♡♡♡」
片手で頬を押さえ、もう片方の手で枕をバシバシ叩く。
あ~、もう上手くいき過ぎて運命すら感じるわね!! こんなのお話の中でしか有り得ないと思っていたのに。意外と人生は、物語のように在り来たりな結末で終わる事の方が多かったり!? 転生、万歳! 順風満帆の人生、最高! ま、望薄いかなって思った事もあったけど、それもこの為のエッセンスだと思えば……。とにかく、本当大した事なかったわ!
鏡で見る自分の姿はとても締まりがない顔だけど、全然気にならない。元々品のある顔立ちではなかった分、喜んでいる自分の顔は自分でも自惚れてしまう程、良い表情をしている。
「姉さん、ちょっと良い?」
「え?」
真横から聞こえる声に、身体中から血の気が引いた。
――――エ、エリオット!? いつの間に……。って私、いつからだらしない顔見られてた?
「な、何? ノックもしないで」
「したよ? でも、返事がないからついドアを開けちゃった。ごめんなさい」
「そ、そうだったの……。それで、用事は?」
可愛い弟に、今まで取り繕ってきた私の本性がバレる訳にはいかない。顔にぎゅっと力を入れて引き締める。
「父さんが呼んでる。悪い事が起きたらしい」
「悪い事?」
「悪夢の訪れだよ。社交界に気を付けてね。噂はあっという間に広がるから」
「……どういう、意味?」
「もし、悲しくて逃げたいって思ったら、僕の所に来て。いつでも姉さんを引き取るから。それから、これをどうぞ。今日のラッキーアイテムだよ」
可愛い弟のエリオットの言っている事だから、理解したい。理解したいけど、一ミリも理解出来ない……。エリオットってば、唐突に何を言い出すのよ……。だって、リリアム様は社交界の悪夢なんかじゃなかったのよ? だったら悪夢って何を指すの? 噂? それにこの袋は何? ラッキーアイテム!?
袋の中で何かがもぞもぞと動いている。
確かに、エリオットは占いに精通している。評判は、姉である私のお墨付き。小さい頃からドキッとするような事を言い当てて、動揺させた人数は数知れず。そのいずれも当たっていたのだから、無視は出来ない。
嫌な予感がする。雲行きがどうにも怪しくなってきたと思うのは……。ねぇ、エリオット。その表情は、そういう事なのね?
いつもなら天使のように可愛く振る舞うエリオットが、今日ばかりは悪魔に見えた。悲しそうな目をした悪魔に。
「ラッキーアイテム、ありがとう。お父さまの所へ行ってくるわね」
「……うん。あ、それとこの前もらった毒蠍だけど、あの毒蠍はすばしっこいね。気付いたら逃げてたよ。今度見付けたら、絶対捕まえるって言っておいて」
「うん、分かった」
エリオットには申し訳ないけど、あの毒蠍は絶対に捕まえられない。その上、あの毒蠍の正体がリリアム様だと知ったら、どう思うだろう。きっと目を輝かせて、研究対象にしたがるわね。エリオットに話したい事がたくさんあるのに。占いの事についても、色々聞きたいのに……。
でも、お父さまを待たしてはいけない。気は進まないけど、一階へ下りてお父さまを訪ねた。
「お父さま、ロメリアです」
「ああ……。入りなさい」
書斎に入ると、お父さまの顔色が酷く悪い事に気が付いた。
「何か……、ありましたか?」
「ロメリア、しばらく社交界に顔を出してはいけない」
「どうしてですか?」
「婚約も破棄しよう」
「え、そんな……。あ……」
お父さまの眉根がぴくんと反応すると、私はそこで口を噤んだ。
ああ、お父さまが珍しく苛立ってる。怒ると右側の眉根だけ動くから、読みやすい。それ程の事が起きたという事も分かってしまうから。
そういう時は決まって黙る事にしている。俯いて、嵐が去るのをじっと待つように。
つくづく思う。他人の顔色ならまだしも、親の顔色を窺うような子供にはなりたくなかったって。だって、『血は繋がっていないから、顔色を窺うのでしょう?』と周りに言われてしまうから。だから、今まで本当の子供のように演じてきた。演じてきたのに……。こういう時に気にして黙ってしまうのは、まだ無意識に遠慮している部分があるのかもしれない。
ああ、ごちゃごちゃ考えたくないのに。悪意ある言葉が、頭の中で何度も響く。それらは全部、今まで実際に言われてきた言葉だ。
私の意気地なし。悪意ある言葉に踊らされて、それを受け入れたかのように俯いて黙っているなんて……らしくない。そんな些細な事を気にして落ち込むくらいだったら、口を噤まずに言うべきよ。本当のお父さまだと最初から思ってるなら、本音を曝け出してぶつければいい。
唇をぐっと噛み締めてから、大きく息を吸う。
「だ、誰に何を言われようと社交界には顔を出しますし、リリアム様と婚約破棄するつもりもありません」
お父さまは一瞬目を丸くして私を見たけど、すぐにその目が鋭く尖った。
「傲慢な貴族の目に晒されて傷付くのは、お前だぞ? 身分を逆手に何て言われ始めているか……」
「私は平気です。後ろめたい事など何もありません」
「私は反対だ。周りがそれを許さないだろうからな。あらゆる手段を使ってでも、お前を傷付け社交界から追放するぞ。それが社交界から目を付けられた者の定めだ」
いじめ、とも言うわね。私が何も持たない子供だったのも、養子に引き取られた事も、親しい貴族の間では有名な話で、受け入れられていると思っていたけど……? もしかして、その情報が私を貶めたい者の手に渡ったとか?
心当たりがあり過ぎて、溜め息が出る。
「お父さま、私はリリアム様の事が好きです。以前、お父さまは好きな人と結婚をしなさいと言いましたよね?」
「ああ、そうだな」
「だったら、どうして……?」
「娘が一番可愛いからに決まっとる。グレイス家の名声や地位なんぞ吹き飛んでも、私は痛くも痒くも……、いや、少しは痛いがその程度だ。エリオットだって、ロメリアの為なら地位などくれてやるって思っているだろうな。まぁ、あいつは後ろ盾がなくても才能があるから、自分で自分の道を切り開くだろう。とにかく、娘には棘の道は歩かせたくないんだ。これは……、私の我儘だな」
「お父さま……」
「お前が本音で私に意見をした事は嬉しく思うが、ほとぼりが冷めるまで待った方が良い。私たちの事はいいが、お前の事を悪く言われるのはもうたくさんだ……」
お父さまは眼鏡を取ると、天井を仰ぎ見て黙ってしまった。
やっぱり……。私が知らなかっただけで、今までもあったのね。私の出自の事を良く思わない保守派の貴族が私の悪口を言った事が……。もうたくさんと言いたくなるような回数で。きっと、その度にお父さまたちにも口汚く罵ったんだわ。
そんな事があったのに、それを私の耳に届かないようずっと守ってくれていたのね。
……もしかして、人付き合いを大切にしていたのは私の為でもあった? 少しでも受け入れてもらえるように、理解者を増やそうとしたとか? ああ、そんな……。
ありがとう、お父さま。
ありがとう、お母さま。
ありがとう、エリオット。
私が精神を病む事なく割と真っ直ぐ成長出来たのは、間違いなくグレイス家のおかげ。
「分かりました。でも、今日の舞踏会は行かせてください。それで終わりにしますから」
「私としては反対だが……。もう何を言っても無駄なのだろうな。好きにしなさい」
「ありがとう、お父さま」
半ば強引に、我が儘を貫いた形に事がおさまると、私は書斎を出た。




