Q2・男は何を、言伝に残したのか
今回は、解答の前に数行のラグを開けております。
もしよろしければ、そのタイミングで推理を固めたりしてみると答え合わせが楽しいかもしれません。ぜひ。
『Q2・男は何を、言伝に残したのか』
日がな、この街の夜は到来が早まってきている。
二週間も前なら、この時間帯はまだ昼過ぎとも相違ないほどの日差しを感じていたように思う。俺は、ふと気付いた西日に顔を上げ、黄昏色の風景をしばし見た。
この店は、日中こそ日当たりが悪いのだが、しかしこの時間帯においてのみは採光を往来に依存することが出来る。ゆえにであろうか、この店にあるものはどれをとってもセピア色に色あせていて、それが、夕暮れの日差しによく馴染む。
どうやら、未だもうしばらく、空は黄昏るつもりであるらしい。
俺は窓際の、この時間帯ばかりは一等席と言わざるを得ない小さな円卓の前に腰を掛け、日差しの傾きを、往来から仰ぐように眺めている。
しかし、ふと気付いて席を立った。
なにせそろそろ、平素であればあの男が来る時間帯である。
特に今朝は、かような約束もあったし、コーヒーを淹れるのに湯を沸かしておいても、無駄になるようなことはあるまい。
「やあ、お前、待っていたぞ」
「あんたが待っていたのは私の財布だ。違うか?」
俺は、返事をする代わり、彼の定位置の前にコーヒーを置いた。
「なんだ。金を払う約束がつけば、この店はやたらとサービスがいいじゃないか」
「いや違う。待つがいい」
彼の向かいの席に、俺の分のカップも据える。
そうして手招きで彼を席に誘うと、不承不承と言った面持ちではあったが、彼は席に座った。
「聞いてくれ。俺はお前に、用事があるんだ」
「うん? なんだね、珍しいことじゃないか」
「いや、待て、どうかな。正しく言うとすればだね、用事があるのは俺じゃないとも、いえるだろうか……」
「なんだそれは。誰かが裏で待ってでもいるのか」
俺の曖昧な調子に、彼がなにやら訝しみ始めた様子である。
しかし、俺は別段誰かを、裏に待たせているというようなことはない。ひとまずは、率直に事態を告げるべきだろう。
「お前宛に、伝言を言付かったのだ」
「おっと、なんだ、珍しいことだ」
「ただし、ううむ」
「言い淀むじゃないか。不吉な話であったのか?」
「いやなに、ただ単に、その伝言の内容を忘れてしまったのだ」
「…………。馬鹿な、それじゃあ本当に、あんたはただのボケ老人じゃないか」
「マジでやめろ」
「……失礼、心中察するに余りある」
なにせ明確な老化の兆候である。俺という人生の斜陽は今日始まったと言っていい。
「だからね。お前には、俺が言伝を思い出すのを手伝って欲しい」
「それはまた、難儀な話だ」
むずかしい、と彼は呟く。
「なんだ、お前、聞いてはくれないのか」
「さて、私が聞くと答えたところで、言伝の正体にアテがつくかどうか」
「分からないのかな。俺は今、その伝言の内容が「ここ」まで出かかっているんだ」
言って俺は、自分の喉を指さした。
「それが、なんだ。あんた」
「ここまで出かかっているということは、すなわちここで詰まっているということだよ。お前、俺を窒息死させるつもりか?」
「そんなことで人が死ぬかよ」
「死ぬともさ、したらば床に、俺の喀血でお前の名前を書いてやろう。ほれみろお前は、とんだ迷惑をこうむることになるぞ」
「なんだそれは、どうして窒息して喀血するのだ。血を吐けるということは喉が通っているということじゃないか」
「……。見ろ、まるで鬼の首を取ったかのようなしたり顔をしている。流石法律家どのは、人の矛盾を突くのが生業と見える」
「私がそんな顔などしているものか。のどに詰まったものをどうにかする前に、あんたは、頭に上った血をどうにかしたまえ!」
「コーヒーの水面でも見るがいい! こんなじじいを捕まえて悦に入る、鬼の表情が写るはずだ!」
「……、真っ黒だよ。何も映らん」
閑話休題。
彼は改めて一息ついて、俺に冷静ぶって言う。
「しかしね、なにせこの状況では、気付きのとっかかりになるようなものが一つとしてない。あんた、なにか欠片でも思い出せるようなものはないのか?」
「それはそこ、お前が今朝のように、至極理論的に導いてくれればいいだろう」
「……、導いてくれればいいだろう、と言ったのか。なんだその威勢のいい開き直りっぷりは。アジの開きでももっと羞恥があるに違いない」
「アジは全部丸出しじゃないか」
「私が言っておいて何だがアレはヒトの所業だ! アジの憤懣たるや察するに余りある!」
閑話休題。
「兎に角ね、お前。言伝の主が男であったことは覚えているのだ」
「男? ああいや、なるほど。少しわかったことがあるぞ、あんた」
「うん、なんだ」
「何、男と言われてピンときた。その言伝の主は、あんた、ここの客だったに違いなかろう?」
「うむ、うむ。そうだとも、男は言伝のついでにな、高いアロマを買っていったよ」
「おっと、そうなのか?」
「そうとも。男性方には人気の薄いガーベラ香の室内用だ。俺は贈答品だと目算をつけて、リボンをのし付けて渡してやった」
「そうか。……いや、それはいい。そうではない。そうではなくてだな」
もったい付けるヤツに腹が立って、俺は、ヤツの膝を蹴り飛ばす。
ガタン、と机が一つ揺れた。
「いってぇし!? な、なんだあんたこの暴力老人!」
「俺とお前じゃ残された時間が段違いだろう! 俺の時間を浪費するんじゃあないぞ!」
「おお、なんて説得力だ! わかった、観念しよう!」
そう応じて、彼は改めて、コーヒーで唇を濡らした。
「そう。私は気付いたのだ。その言伝の主たる男は、私に用がありながら、そこの、目の前にある私のオフィスには訪れなかった。ならばつまり、その男は、私の職場を、つまり仕事を知らないということではないだろうか」
「なるほど」
「加えて言えば、あんたが言伝の内容を忘れるくらいだ。その男は、この店の顔なじみではないのだろう?」
「そうだ、そうだ。そのとおり!」
「その男は、私の職業を知らない。それなのに私を知っているということは、恐らく、その男は私の、この店にいるのを見たということだ」
「その通りに違いない! だから男は、この店に来て俺に言伝を頼んだということだな?」
「そうだろうな。男は、察するに俺の名さえも知らないに違いない。おい耄碌じじい、男は私に言伝を残すのに、どうやって私のことを言ったのだ」
「おお! 確かにあの男は、お前の名前を言いはしなかった。たしか、そうだ。男は、この店に来る、二十代半ばの青年と、そうお前の特徴を上げて見せた!」
「そうだ、そうだ。男の特徴は、おおよそ掴めたのではないか!」
「佳し! それで、伝言の内容は?」
「いやそれは分からんよ蹴ろうとするな!? テーブルで隠れて足元見えてないけどな、顔で分かるぞあんた、この暴力老人め!」
気付かれた通り俺はまたヤツの膝を蹴ろうとしていたため、すごすごとつま先を収めた。
しかしなんだ、このとんだ肩透かしはなんだ。しっかり間を取って盛り上げて話した帰結がこれでは、とんだ時間の浪費だと、脚気の検査の一つしたくなったって仕方のないことだろうが。
「おっと、待て。俺は一つ思い出したぞ」
「なんだ。……と言うか、あんたが言伝を忘れたのが悪いはずなのに、どうして私は蹴られたのだ」
「それは二元論に違いない。この世界は善悪二極かね、法律家。今時そんなもの、人と自動車での事故くらいにしかないのではないか?」
「あんたのような老害が、そう言って横断歩道もない自動車道路を遅々として横断するのだろうな。法律に守ってもらえるのは、当たり前のマナーを守っている人間だけと知るがいい」
「おっと、予想外に言い返すのが饒舌だな。どうした、何かあったのか?」
「昔な。見ず知らずのな。ばばあのチャリが、俺のサイドミラーを轢いたのだ。こちらは信号待ちで待っていた手合いだというのに喚く喚く。外聞があまりに悪いものだからね、私はついに謝らされたよ」
「……。コーヒー、飲むか?」
「お代わりを」
そう言って、彼がカップの残りを一気に嚥下する。ともに飲み下したのは冷や汗か悔し涙か。どちらにせよ、あのコーヒーはきっとしょっぱい。
「いや、違う違う。そもそも。お前は、せっかく俺が思い出したと言ったのに話を変えるものだから、俺は今忘れそうになったぞ」
「いよいよじじいだな。どれ、肩をもんでやろう」
「触ったら殺すからな」
「せめて皮肉には皮肉で返したまえよ、普通に殺意で返すものではない」
「兎に角思い出した、そうだ、男は何やら、伝言とは思えないようなことを、俺に言ったのだ」
「ふむ、伝言とは思えないようなことだと?」
彼が一つ、身を乗り出した。
「それをしかし、あんたは覚えていないのだな」
「そうとも、お前、先にそう言ったのを覚えていないのか」
「このじじいは! 人ってのは年を取るにつれて、面の皮ばかり厚くなると見える!」
「お前の行きつく先だなあ?」
「肌つやが枯れても軽口ばかりは湧いて出ると見える。もういい、それよりもだ、あんた、その、まるで言伝とは思えないことと言うのはむずかしい。もう少し、具体的にはならぬものかね」
「どうかな。あいさ、少しばかり面食らったような記憶もあるな」
「面食らっただと? よもや背後から「わっ」と脅かされたというわけでもないだろう」
「そうではないし、例えばその男が、実はお前の隠し子だったというわけでもない。俺はそれなら、面食らうよりも前に往来に出て言いふらすともさ」
「気狂いの老人が出たと捕まるだけだ」
「言っていろ。俺は虎視眈々と、そのチャンスを狙っているぞ」
「おかげさまで一生不貞などしないと今誓ったよ。それより、面食らったとはなんだ。もうすこしくらい具体的には思い出せないのか」
「ふむ」
考えるのに厭いが出てきて、俺はその代わりコーヒーに口をつける。
すると、その少しぬるい口当たりが、粗熱の溜まった俺の脳に、少しばかりの冷涼感を与えたらしい。
「面食らう。呆然とする。ふむ。どれも違うな、そう。俺はあの時、こいつは何を言っているのだと、そう思ったのだ」
「荒唐無稽なデマでも吹き込んできたのか」
「いや違う。そうではなくてだな、俺は男にこう思ったのだ。こいつは、何を言っているのだ、とな」
「荒唐無稽とは、どう違う?」
「吾輩は、……坊ちゃん?」
「じじいが何を言っている? 年齢で放物線を描くのは、肌の質と筋力だけでなくて精神年齢もそうなのか?」
「違う馬鹿め。ええと、そうだな」
「いや待て、それはあれか、夏目漱石の話か?」
「そうだ、そう! 万札じゃ!」
「万札じゃとかいうな! そうやって妙な覚え方をするから我が国きっての文豪の名を失念するんじゃあないのか!」
「日本国民だったら誰にせよ一万円札のことを忘れる日などあるまい!」
「リスペクトはしっかり忘れてるだろう夏目漱石への! いや待て、しかし、待てよ。ならば男が言ったことには、夏目漱石が関係しているのか」
「ああ、そんな気がするな。時にお前、お前は故郷にイニシャルKの弟子を残してきてはいないか」
「私は生まれも育ちもここ横浜だよ。いやあんた、もしもこれがこころ案件なら、あんたは狂人よろしく街に叫び出たはずじゃないのか」
「なるほど、じゃあ違うか」
「納得するんじゃあない、まるであんた、本当に私の隠し子を見つけたら、先ほど言ったようなことをしでかすつもりみたいじゃあないか」
「馬鹿なことを言うな。俺とお前は親友ではないか」
「いいか、そういうのを私たち法律屋は詐称と呼ぶのだ、控えたまえ」
ふう、と彼が息を吐いた。
そして、深く背もたれに身体を預け直す。
「兎に角、あんたの聞いたのは、その、夏目漱石を想起するような言伝だったとみていいな」
「それは間違いない」
「そのうえであんたは、「こいつは何を言っているのだ」と思ったということか」
「そうとも、さっき話した通りだよ」
「それならあんた、私にはわかったよ」
「何?」
「あんたにはつまり、「教養が無かった」ということだね」
「なんだ、馬鹿にしたのか。俺は年上だぞ」
「急にそういうのを出すなよ、ちょっとした冗談だ」
そう、彼は哂って、
そして、確信の一歩手前に当たる台詞を、俺に言った。
「あんたはにね、教養があって」
そして、と言葉を継ぐ。
「そう。そして、教養が無い手合いの反応を示したのではないか?」
「……、……」
それで、俺は思い出す。
そう、これは、そもそも順序が逆なのだ。俺はあの時、「こいつは何を言っているのだと思って」から、「夏目漱石のことを思い出した」。
つまるところ、そこが逆であった。
俺は、その言葉を聞いて、「夏目漱石のことを思い出して」から、しかる後に「こいつは何を言っているのだと思うべきだった」。
つまり、それは彼の文豪、夏目漱石の残した数多の名文、名文学においても、特に殊なる伝聞を経た一節である。
「あんたは、このように言付かったのだろう? だからこそ、違和感が先に立ったのだ」
それも当然に違いないが、と彼は言う。
誰だって――、
A・
――「月が綺麗ですね」などと唐突に聞かされたらまずは、「何を言っているんだこいつは」となるのが当然に違いない。
それは、彼の文豪が「I LOVE YOU」に当てた和約である。無論ながら、かような贅肉的解説の余地などないほどに広く周知された名文であることは、敢えてここに残すべきに違いなかろうが。
「……。」
「……。」
「……、……」
「……、……」
「………………。え、怖いんだけど」
俺のその一言で、彼の肌が一斉に産毛立ったようであった。
「なるほど! なるほどそうか! 私はあれか、告られたんだな、男に!?」
「いや、いやそれは待てよ! お前、だってさ、あっちだってたぶん一世一代の勇気振り絞ったんだよっ? 大切に思ってあげないと……ッ!」
「無理だろ馬鹿ッ! どういう情緒持ってれば人に伝言だっつってそんな台詞残せるの!? 現代社会に生きる我々的にも夏目漱石ってネームバリュー踏まえてギリギリアウトの必殺(笑)ワードじゃんかよ!」
「恋はさっ! ほらっ、盲目だから! 好きな娘の前じゃ格好つけたくなるのだってわかる!」
「分かってたまるかァ! あんたは今なっ、娘って書いてルビに『こ』って振ったんじゃねえのか!? ふざけんなよそこに当たるのがこのケースだとオレなんだよ! うわあやめろお腹立たしいッ!」
「だ、ダメだろお前!? 仮にも告白だぞッ? 腹立たしいの一言で済ませようとするんじゃあない!」
「そう言うけどよぉよくよく考えても見て欲しいよなあ! 告白がどうとか同性愛を差別するのかとか云々じゃねえだろ! どうすれば人伝てに『月が綺麗ですね』って言えるんだ! せめてそういうのは面と向かって直接言うべきなんじゃねえの!? ねえこれさ、実はあんたが告白されたってオチなんじゃねえの!?」
「それは違うね。受けるにしろ断るにしろ、自分で受け止めなきゃ」
「だぁクッソ! 性的少数派が不安定な立ち位置にある現代で! オレは! ここで! なにをどう言ったって! 悪役になっちゃうんじゃねえのかァ!」
言い争って息切れを起こし、俺たちは口内の熱を冷めたコーヒーで流し落とした。
それで、少しずつ事態が鎮静化したところで、
俺は男に一つ聞いた。
「さて、お前、どう答えるのだ」
「どうって、なんだ」
「あの男にさ。俺は言伝を預かったし、それを伝えたのだ。往復便を頼まれるのは承知だ」
「ああ、ええとだね。あんた、ちょっと待ってくれ」
言って、何やら悩んだようなそぶりを男はとった。
……たしか、返歌として妥当な言い回しは、「星も綺麗ですね」と言ったものだっただろうか。相返事をすることが、つまり「ME TOO」に当たるモノだったはずだ。しかしながらこれはネットで見た知識であるために手放しに信頼はしないでもらいたいのだが。
というかそもそも、この流れで「おっけー」とは返事しないでしょ。しないよね? すんの?
「悩ましいよ、私は」
「なんだお前、新しい扉が開くのか?」
「冗談でもやめろ! いやね、あんた、私はこれに、どう断ったら角が立たないだろうかね」
「角だと? 潔く振るのがいいじゃないか。古今東西、それが一番後腐れがないのだよ」
「私は法律家だぞ、その男が、私のオフィスを突き止めでもしたらどうする。私はね、あんた、生まれてきてこの方そっちの人との縁なんてなくて分からないんだ。ケーススタディーで挙がるのはマツコかミッツか、彼ら、……彼女ら? まあいい。あの手合いの知っているのは、マツコかミッツか奴らの傘下かがテレビで嵐を起こしている姿くらいなのだよ」
「オフィスで嵐が立って、ご自慢の資料が風に舞うのが怖いのか」
「そんなところだ。出来る限りは恨みを買わずに別れたい。少なくともその伝言の男は、頭が飛んでいるふうに思える」
それからさらに、彼は思慮する。
「しかしあんた、その伝言というのは、なんだろうな」
「なんだ? お前、なにがいいたいのだ?」
「いやね、私は思うのだ。伝言の男も、彼は彼で、こちらに意図が伝わらない可能性を考えなかったのだろうか」
「待ってくれ、彼女と呼ぶ方が適切なんじゃないのか」
「知らねえしどっちだっていいし。……ふむ、なるほど、これはやはり、私は返答が悩ましいぞ、あんた」
「結論から言え」
「老人というのは老い先短いのに生き急ぐな。いや冗談だ蹴るのはよせ。いやね、私はこうも思ったのだ、つまりな。伝言の男は、俺を試したのではないか、とね」
「試す、だと? 身体のアレか」
「相性じゃねえよ面白がってんじゃねえぞ。ちがう、そうではない。そうではなく、彼が試したのは察するに俺の教養だったのではないだろうか?」
「なんだ、お前、法律家なのにアホなのか?」
「誰がアホだ。いや違う、あんたな、伝言の男は私のことを見知ってはいても、私の素性は知らんのだ。つまりな、私の服装の設えの良さを見て、その男は私を金持ちだとは見抜いたのか見知れない」
「それが、なんだね」
「古今東西、成金というのは下品とまず先思われるのが人の世だ。ゆえにそう、男は、私の教養を見て、そこを試そうとしたのかもしれないな」
「……ふむ、なるほど。そこで彼の文豪の一節を引用か。おおかた、教養の質を読書の練度に測るつもりだったというわけかな」
「そうだ、そこでだね。あんた、一つ相談がある」
「なんだ」
「その男に言伝を頼むよ。内容は、そうだな。私は「何言ってるんだ」と、そう答えていたと返しておいて欲しい」
「いいのか? アホだと思われるぞ」
「良いよ、なんならついでに鼻をほじっていたとも伝えてくれていい」
「それを食べたとも言っておくか?」
「……。冗談だよ」
そう答えて、彼は、カップの底に残っていたらしいコーヒーの雫を口内に落とした。
「さてね、それじゃあこちらの用事も済ませようか。今朝の約束だ、じじい、なにか良いものはあるか?」
「ふむ、少し待ちたまえ。気に入るかはわからぬが、金木犀の香りを作ってみたんだ」
さて、
そうして商談を終えて、彼は簡単な挨拶で以ってレジスターに代金を置いて行った。
カランコロン、と音がして、
それっきり店内の人気は霧散する。
残ったカップの二つを、俺は回収すべく窓際の円卓へと戻る。
そうして、窓の向こうの斜陽が、目に見えるほどに早くなっていたのに気付いて、
俺は、店の灯りを点けることにした。