Q1・彼は、何の仕事についているのか
『Q1・彼は、何の仕事についているのか』
調香師という職業は、全く、才能や多少程度の興味ばかりで選んでいい職業ではない。
このようにいっぱしの店を構えられるようになってみても、俺の人生には、しばらく華やかさというモノと縁がなかった。
「……、……」
とある海沿い都市の一角、本通りを一つ逸れた場所に俺の店はある。
昼は海と日当たりを背に、実に陰気な外観だ。軒先の真向かいにある、何某法律相談所のビルが受ける日差したるや絢爛豪華の一言であって、他方のここはアンティーク調の玄関設えも相まってか、店の戸を叩く客の半分が、まずもってここを喫茶店であると勘違いする。
「穴場のコーヒー屋なのかと思った」などと、いつか言われたことがあった。
申し訳ないことに、俺の店が奥まっているのはただの不景気の表れだ。閑古鳥は人通りから隠して飼うべきものに違いない。……と言う愚痴は脇道として。
閑話休題。
今朝の客も、そのような手合いの一人であった――。
「コーヒー、淹れたよ」
「お、どうも」
店内窓際のテーブル席に座る男に、俺は声をかける。
スーツ姿の快活そうな青年だ。
或いは見る人が見れば、その笑顔がうさん臭くも見えるかもしれないが、とりあえず、外見はそのような人物である。
テーブルに二人分のカップを置き、俺は彼の向かいの席に座る。
何が気に入っているのか、彼はこの店に来るとそれなりの時間この席に滞在する。
俺からすれば、窓際だというのに昼間は一向に日当たりの悪いこの席は、この店の立地の悪さの象徴にしか思えない。或いは、法律屋様のビルの反射を光源にしているというのも、その不毛たる感情に一役以上を買っているだろうか。
「……、……」
熱いコーヒーで胃の腑を焦がす。
それから、俺は店内をふらりと見渡した。
広い店ではない。棚や壁掛けに並ぶ袋入りの商品たちは、どれも俺手製のアロマである。それから、香りを焚く器具などもいくつか置いている。
ただし、アロマを売っているにしては、この店の壁にはコーヒーの匂いが染みつきすぎているかもしれない。
「なんだ? また陰気な顔をして、不景気かい?」
「そうだよ。知ってるだろ?」
この男は、それなりに年が離れているくせに、吐き出す言葉に遠慮というモノがない。
彼が顔なじみになってしばらく、流石の俺もそれには慣れて久しいが。
「今朝は、何か買うつもりなのか?」
「ああ、季節もようやく春だろ? なにかで気分を変えようと思っている」
「ウチで使うモノだろ? 朝買って、そのまま出先まで持って行くのは手間じゃないか?」
「ここのコーヒーは、朝に飲まずにいつ飲むって言うんだ」
よくわからない話だ。しかし彼は、妙に言ってやったという顔をしていてそれが腹立たしい。
しかしまあ、今は商談だ。
「お前、モノを言ってくれれば、取っておいてやってもいい。どうせ帰りにも来るんだろ?」
「持っていたいのさ。手元にないとなると、気が変わって別のが欲しくなるかもしれない」
「ならば、そっちを買えばいいだろう」
「それじゃあ、味気がない」
全く、何のこだわりなのか。
俺の店はそも、味覚ではなく嗅覚を取り扱っている職種である。
……という脇道が、ふと、俺に一つ喚起を及ぼしたらしい。
「そうだ、おい、出先で思い出した」
「なんだね、どうした」
「俺は、お前の仕事を知らないんだ。何をやっているのか、そろそろ教えてくれてもいいだろ」
「ああ、そういえばそうか」
と、彼はふと、何やら一つ考えるようなそぶりを取る。
そして、睥睨するような表情で以ってニヤつき言った。
「ならあんた、当ててみてくれよ」
「何?」
「正解したなら、そうだな。私は帰りにも一つアロマを買っていこう」
「ふむ」
先の質問自体は、さして興味のあってしたものではなかった。
しかしさてと、こうして毎朝コーヒー一杯分ここに滞在して許される職業などには思い至る節がなく、スーツを着ているのでどうやら彼がサラリーマンの類であることは考えられるが、それ以上はさっぱりだ。
そう言った意味で、彼の職種は全く不思議で、知的好奇心を逆なでされる心地もあるが、それ以上に、俺には彼に興味がなかった。
「まあでも、いいな。やってみよう」
「まあ? でも? 何の話だ?」
「こっちの話だ」
なにせ、アロマの在庫が一つでも掃けるのは良いことに違いない。
「当てて見せよう」
「いいね。なら時間は、このコーヒーがぬるくなるまでだ」
抽象的な時間制限ではあるが、それがちょうどいいだろう。コーヒーが冷めた頃と言えば、それはつまりこの会話に区切りをつけるべき時分に違いない。
「まず」
「うむ」
「雑誌記事のライターというのは?」
「さっそく、外れだ」
「……、……」
スーツを着て、しかし朝の拘束がぬるいというので、まず思い至ったのがそのような自由職であった。しかしながら外れらしい。ならば、こういうのはどうだ。
「雑誌編集者」
「違う」
「なら、新聞記者か?」
「それも違う。あんたは俺をどうしても文字職に就けたいらしいな?」
「ううむ」
そちら方面は、夜の方が仕事のゴールデンタイムなので出勤が遅いと聞いていたのだが。
「むずかしいな、そもそもサラリーマン自体、定義が広すぎる」
「おっと、私は一度も、自分をサラリーマンだなどと言った覚えはないぜ?」
「……。それも、そうか」
しかしながら、サラリーマンでもないのにスーツを着ているというのはどういうことだ。
いや、つまりは自営業職の営業回り中である可能性も考えられるのか?
「……いやいや、違うな。君はサラリーマンだ」
「それはなぜ」
「ほとんど毎日、平日の決まった時間にここに来るんだ。自営業者の営業回りで、そんなことをする必要はなさそうじゃないか」
「オフィスをこの辺りに構えているとしたらどうだ」
「そもそも、お前は社長をするには胡散臭すぎる」
「……、……」
彼は、苦笑いを一つした。
「まあ、いい読みだとは言っておくよ」
「それは、どちらの読みについてだ」
さあね、と彼はコーヒーに口をつけた。
「ならばバイトだ。コンビニのバイト」
「待って。どうしてそうなる」
「手当たり次第に言おうと思った」
「……。それで、いの一番に出るのがソレか」
違うよ、と彼は答える。
「ここのアロマは、それなりに高いだろう。頻繁に買っていては金が持たない」
「なら、引っ越し業者か配達業だな」
「金入りがいいってところで発想した言葉だろうが、どうしてだろうか。妙に景気が悪く聞こえてしまう」
それも違う、と適当に返された。
「もう思いつかなければ、さてね、ここいらで答えを言ってしまおうか」
「いや、待て。そろそろ本気で考えてみようじゃないか」
「……。腰を入れるのが遅すぎるんじゃないのか?」
「ダメだ分からん」
「腰を入れるのは遅かったがそこからは早かったな。どうした、どうして諦めた」
「そもそもな、俺は学生を終えてこっちすぐにこの仕事を始めたのだ。サラリーマンなど、具体的な職種どころか俺には、彼らが通勤で電車に詰め込まれているというイメィジくらいしか持っていない。いや分かったぞ、アレだな、証券取引だろう!」
「今アンタは、多分、唯一知っているサラリーマンらしい言葉を言っただけだろう?」
その通りであったため、俺は唸り声を上げた。
「いいよ、降参だ。分からない。答えを教えてくれ」
「いいやダメだね。こうなればこっちも自棄だ。アンタが当てるまでは帰らん」
「なんだそれは。それでは趣旨が違う」
「バイトだなんだと舐められたままでたまるか。俺はスーツを着ているんだぞ」
「わかったぞ就活だ、お前は学生に違いない!」
「私の顔を見てからものを言え。これが学生のほうれい線なわけがないだろう」
「俺からすれば、半世紀も生きていない若造の顔のしわなど区別がつかない」
「じじいめついに耄碌したか」
なんと失礼な物言いだろう。
俺は、コーヒーカップを机に叩きつけた!
「ふがふがっ!」
「……乗るな乗るな。流石のアンタでも入れ歯には早かろう」
「実はしているのだ」
「うっそマジ!?」
「嘘だ。そう身を乗り出すものじゃない」
「なんなんだい、アンタは……」
さてと、閑話休題。
実に面倒なことに、どうやら彼も意固地になっているらしい。
俺が彼の職に思い至るためにか、彼は何やら俺に向かって話し出した。
「私は、このように朝、アンタの店に顔を出せるだけの余裕があるだろう?」
「うむ」
「しかしながら、毎日決まった時間に、こうして、スーツを着てここに滞在している。ならば私は、毎日決まって、この場所にこの時間に来るということだ」
「おうとも。そこまでは分かっているのさ。しかしね、その先が不明瞭だ。お前が何を売っている手合いなのかについては、俺が知っている事だけでは不鮮明だ」
「そうだろうね。しかしな、よく考えても見ればわかるはずなのさ」
「何?」
「決まった時間に出勤するスーツ服ならば、それは間違いなくサラリーマンに違いないよ。しかしだね、アンタ、そうして可能性を絞ったつもりだろうが、サラリーマンというくくり自体だって非常に広いじゃないか」
「その通りだ、だからこそ私は、さっき飽きて投げ出したのではないか」
「飽きて投げ出したのか、アンタは。当てて見せろとこの話を設けた俺に向かって、よくもそうはっきり言い切るな」
「俺の、お前に興味がないのが悪いとでも言いたいのか」
「……。それも言わなくていいことだが、まあいい」
かちゃり、と彼が手元のカップを取り上げる。
そうして、彼が口をつけているコーヒーの表面には、先ほどからすでに湯気などは立っていなかった。
「まずね、見るがいい。私の靴だ」
「なんだ、やけに設えが良いな」
「そうとも。つまり私は、出先を歩き回って靴底をすり減らすような仕事ではない」
「なるほど」
「次に、これだ」
「なんだ、鞄か」
「そう、やけに分厚いだろう? この中身にあるのが何なのか、想像できるかね?」
「出来ない。言ってみろ」
「そもそも想像しようとさえしなかっただろう。一度考えろ」
「分からないものは分からない。お前は、俺の頭の出来に文句を言いたいのか」
「軽口ばかり即座に思いつくその頭にか? 言いたいことばかりに決まっているだろう。まあいいさ、この中にはね、資料が隙間なく詰め込まれている」
「防弾仕様か」
「何を言っている?」
「俺も分からない。続けてくれ」
「……。それでだ、私はつまり、オフィスにこもり切りで資料を扱う仕事をしていると考えられるわけだな。また、私はその資料を家に持ち帰っていることもわかる」
「それが分かったら、なんだというのだ」
「まあ聞き給えよ。そこでようやく、私が毎日決まってここに、決まった時間に訪れるという気付きが活きてくる」
「どういう意味だ?」
「この辺りに、私のオフィスがあるということだ。こもり切りの仕事で、資料をたくさん取り扱う。考えても見れば、この辺りでそのような仕事のある事務所など、一つしかあるまい」
「一つということはあるまい」
「うるさいな。みろ、この靴もスーツもブランドの品だ。それなりに金入りがいいのだよ、私は。それも踏まえれば、殆ど一つと言ってもいいはずじゃないか」
「法律家か?」
「……正解だよ驚いたな。急に正解を言い当てるものじゃない。もうしばらくすっとぼけられるものだと思っていたから、私は相当面食らっているぞ」
「なんだ、考えろと言ったかと思えば。もうしばらくすっとぼけろとも言う。お前はなにか、金に目がくらんで挙句、人は全て自分の思い通りだと思ってやまないのか」
「思ってやまないこともないし、そこまで言われるような失言だったつもりはないぞ。いや、訂正こそするがね。なにせ驚いてしまったのだ、失礼。よくぞ当てた」
「ふむ。当てて見せようなどと言った手前があるからね。そりゃあ、当てて見せるとも」
「どの口が喋った。途中何度あんたが飽きたかここで数えて見せようか」
「それは必要ない。それよりも約束だ、覚えているな。帰りにも商品を買って行けよ?」
「……、金に目がくらんで云々はあんたなんじゃないのか?」
さてと、
これにて改めて、俺たちはぬるくなったコーヒーを飲み干した。
それから、彼は俺に、ヒノキのアロマの取り置きを求める。約束のもう一つは、これを取りに来る際に選ぶつもりであるらしい。
思いのほか長く話し込んでしまったようで、店の前の往来は先ほどよりもずっと分厚い。
街が動き出した、という光景だ。
「それでは、またくるよ」
「おうとも、いってくるがいい」
彼の背中を見送って、私は翻り店内へと帰る。
静かになった店の中では、改めて閑古鳥が鳴きだした他には、未だかすかにコーヒーの香りが残るばかりで、俺はそれに、退屈を思い出した。