九
神田から結婚の申し込みが来たのは、繁子の披露宴から一週間ほどしてからだった。
はじめての仕事を断らざるを得ず、家族共々消沈していた捨松のもとに、その知らせはやってきた。
「東京帝国大学の教授とは、またとない良縁でないの。年が三つしか違わないのに、おまえを娶ってくださろうなんて」
母は喜んで、姉たちと抱き合わんばかりだった。母の前では平静でいたが、捨松もまた、すっかりと舞い上がっていた。
繁子と瓜生氏のような恋愛結婚に、こころの奥底では憧れがあった。それだけに、求婚してきた相手が神田であることが、途方もなくうれしかった。
「どのようなかたなの?」
「やさしくて、美男子で、とても賢いかたです」
当たり障りのないことばしか出てこず、もどかしい気持ちになりながらも、捨松はつい先日、目にしたばかりの繁子たちの披露宴を思い起こしていた。
上背があり、眉目秀麗な神田ならば、紋付き袴でも、燕尾服でも、どちらでも似合う。捨松も着物の優雅さには惚れ込んでいたし、ドレスでの身のこなしはすっかり板についている。どちらでも構わないと夢想した。
その夢想を、ぷつん、と、途切れさせたのは、母の不用意なひとことだった。
「薩摩のお偉いかたとの縁談など、断ってしまって正解だ」
薩摩と聞いて、まるで汚いものでも見たかのように姉が眉をひそめる。
「めでたい話をしているときに何よ」
「浩の上役から、後妻にと話をいただいていたのよ」
「後妻って……」
「三人も娘がいるとか」
母と姉の小声のやりとりに、捨松はふりかえった。長兄、浩は陸軍少将だ。浩のさらに上役ということは、陸軍の高官である。
捨松の脳裏には、披露宴で再会した紳士の姿がはっきりと思いだされていた。
「そのかた、なんておっしゃるの?」
「大山、大山巌様」
捨松は、はじめて耳にしたその名に、『名は体をあらわす』とはこのことかと思った。つい、ゆるんだ口元を手で覆いかくし、姉と母の会話の行く末に耳を傾ける。
ふたりにかかれば、大山に三姉妹があることも、後妻になることも、薩摩出身者であることも、兄の上官であることも何もかもが論外のようだった。いまのところ、神田からの求婚に勝る縁談はないということらしい。
捨松にとっても、これは願ってもない話なのだった。恋い慕う神田の妻になれることもさることながら、既婚者となれば、いまのように軽くあしらわれることなどなくなり、きちんと一人前として扱われるのではないかという淡い期待が胸にはあった。
返事は長兄に相談してからと口では言うものの、捨松のこころも、母や姉のこころも、すでに決まりかけていた。
いつもならば、こうしたとき、訪ねるのは繁子の家だった。だが、なぜだろうか。神田から求婚されて以降、捨松は積極的に瓜生家へ行こうとは思わなくなった。
呼ばれればむかうし、たとえ会合の席に神田がいても、お互いにするのは目配せだけで、周囲が恥ずかしくなるようなやりとりはない。
瓜生氏と神田は親友のためか、繁子は打ち明ける前から、神田が捨松に求婚したことを知っていた。彼女は大いに賛成し、いくらかの賛辞を母に吹き込んだらしく、母までもが会ったこともない神田をべた褒めし、捨松に結婚をうながすようになった。
神田夫人になることを、いつしか、捨松は疑いもしなくなっていた。求婚されて、ほんの二週間ほどで、具体的なことは何ひとつとして決まっていないのに、である。
──そう。この結婚話は、何も進んではいなかった。捨松は一方でとても乗り気であったにも関わらず、もう一方で、どこか不安を抱えていたのである。
とてもすてきな縁談のはずなのに、何か不安で、けれども何が不安なのかわからない。
そのようなことを告白できる相手は、アメリカにいる親友アリスか、もしくはもうひとりの友、梅子しかいない。しかしながら、広く深い太平洋を隔てたアメリカの地は、果てしなく遠く、アリスにむけた手紙の返事は今日明日に届くものではないのだった。
「……それで、うちに来たの?」
梅子は年上の友人を立って出迎えることもせず、椅子にもたれ、肘をつき、足を組んだ。そうして、目を細める。
「ひとつ、確認していいかな。相手は神田乃武で間違いない?」
個人名は告げずにおいたが、いつもそばにいた梅子には無意味なことだった。あっさりと看破され、かえって捨松は恥ずかしくなった。
確認を終えると、梅子は生意気なまでの態度で小首をかしげた。
「スティマツは、きれいな男のひとと、おままごとがしたいの?」
「ままごとなんかじゃないわ」
「へえ?」
人差し指を一本ふりかざし、梅子は小馬鹿にした調子で、くちびるの片端をあげた。
「神田様と住むのはどんな家?」
「洋館よ。二階建ての木造で、外壁は白く塗られているの」
理想を口にしてはみたものの、実際は平屋の日本家屋だろうと思った。
「神田様は大学で英語の先生。じゃあ、スティマツはどんな仕事をするの?」
「──女学校の教師、かしら」
日本語の読み書きさえできるようになれば、先だって、文部省から連絡のあったような教師の口はすぐにも見つかるはずだ。考える間にも、梅子の追及の手はやまない。
「毎日?」
「いいえ、週に何度か。空いた時間には自宅に希望者を呼んでお教えするわ」
「ふぅん、すてきね。きっと、才気溢れる若いかたがたくさん集まるよ。まるでサロンだね、──シゲの家みたい」
冷ややかで平板な声音だった。梅子は捨松の思い描く結婚生活を鼻で笑い、こちらをギッとねめつけた。
「シゲがうらやましいのはよくわかったよ。でもね、スティマツ。たかが教師に何ができるの。理解ある夫がいて、ちょっと女学生に教えていたら、それでわたしたち、満足できるのかな? 週に何度かあなたに習うだけの女学生が、この国を変えてくれるの?」
そこまで一息に言って、興奮しすぎたことに気づいたらしく、梅子は深く息を吐き、目を伏せ、それから、落ち着いた声に戻った。
「わたし、ずっと考えてた。そりゃ、ステレオタイプな女の幸せをつかむなら、ぜひともシゲを真似するべきだよ。だけど、考えてもみて。わたしやスティマツの一挙手一投足が、未来の日本女性の生きかたを左右するのよ。賢いあなたなら、わかるよね?」
梅子のことばがそこで仕舞いでないことも、捨松にはよくわかっていた。みなまでは指摘しない梅子に、うなずきを返し、捨松はおのれのこころのなかでのみ、梅子の口にしなかったその先を何度も繰り返した。
『あなたなら、わかるよね? 神田様の手を取るべきではないことくらい』
ああ、そうだった。いまのいままで、ヴァッサーカレッジで賢さをうたわれた捨松はなりを潜め、自分の役目もわきまえない愚かな女になりはてていた。
あの紳士──大山にやりこめられ、いままた梅子に手ひどく叱られて、ようやく、捨松は自分の歩むべき道を見いだそうと、もがく気になった。繁子の真似でも、梅子の言いなりでもない、自分だけの第三の道。
それは、はじめから見えていたのに、見ないふりをしていた険しい道のりだったのだ。
その夜、捨松は寝付けずに、寝間着の胸で指を組み、ひたすらに祈っていた。ロザリオを繰りながら祈りのことばをささやくと、こころは自然に凪いで、静まる。同じクリスチャンの神田といっしょになれば、ともにこうした穏やかなひとときを持つこともあったかもしれない。
ついさきほど、捨松は神田にあてた手紙を書き終えていた。求婚を断るためのものだ。神田にはきっと、もっとふさわしい縁談があるだろう。捨松は、神田の手は取れない。
神田はきっと、捨松をよりよき方向へ導いてはくれない。たった三つしか年の離れていない彼では幼すぎる。捨松が身のうちに抱えている大きな御役目を、彼は尊重しなかった。
祈りを唱えるうちに、無心になっていた。捨松はこの、神がかるような、こころが澄みきる感覚を懐かしく思った。
子どものころ、よく覚えた感じだった。遊びに熱中して、疲れて足が立たなくなるまではしゃぎまわって、草原へ倒れこむと、会津の空が青々と晴れ渡り、自分たちを迎えてくれる。空に飲みこまれるようにして、ぼうっと時を過ごし、しばらくして、また遊ぶ。
留学してすぐのころは、とにかく会津が恋しかった。母や兄姉が住むのは、もう会津の地ではないのを知っていたけれど、それでも、捨松が見たいのは会津の空だった。
だが、思いだす空には、いつも凧が舞う。
徳川家に忠誠をつくした会津藩は賊軍となり、帝を擁した薩摩藩や長州藩は官軍となった。八つだった捨松は家族とともに鶴ヶ城に籠もり、大砲の弾が降るときは、焼き玉押さえに追われていた。飛びこんできた弾に濡れた布団を被せて鎮火する危険な役目だ。実際、兄嫁は焼き玉押さえに失敗して死んだ。捨松も他の砲弾のかけらで、首にけがを負った。
籠城の前に自刃した親戚もあった。捨松自身も、自害のしかたを母に習った。膝を組んでしばり、水を飲んでから刀を引く。いざというときに、できる自信は無かった。
籠城が続くと食料も武器も乏しくなる。その生活のなか、城壁の外の敵に会津の意地を思い知らせるため、用いられたのが凧だった。
大人の言いつけで、子どもはみんな競い合って凧を揚げ、ひさしぶりに大笑いした。城壁のなかはまだ、凧揚げに興じるほどの余裕があるぞと、敵軍に見せつけたのだ。
捨松にとって、凧は、敵に容易には屈さぬ会津魂の象徴だった。
明治の世にあって、表面上、出自は問われず、みながみな日本人だと言われるが、ならばなぜ、男子留学生と女子留学生に待遇の差異があるのか。なぜ、女性は結婚せねば半人前なのか。なぜ、相手がただ薩摩者だからと、憎しみを持ち続けねばならないのか。
捨松が、梅子が戦うべきは、日本というこの国、この国に住む民衆の胸に巣くう凝り固まった考えや、因習だ。梅子があくまで正攻法で、男性に頼らず、女性の手のみでことを成し遂げようというのなら、捨松の取るべき手立てはほかにある。
ロザリオを繰る手が止まる。指に触れたメダイを手に握り込み、捨松はくちびるを引き結んだ。
──凧を揚げるのだ。敵軍に包囲された城のなかにあっても、悠然と微笑みながら、高々と凧を揚げる。それこそが自分の使命。それこそが、会津魂というものだ。




