八
ポーシャとして愛を語るたび、バサーニオに扮した神田に話しかけられるたび、捨松のこころは揺れた。
「ああ、ポーシャ。たとえお日様は出ていなくても、こうしてポーシャという太陽さえ出ていてくれれば、今は真昼。今、地球の反対側にいるのと同じことだ」
そうしたことばとともに熱のこもった視線をむけられると、いやがおうにも気持ちは高まった。同じ舞台には、ポーシャの侍女ネリッサと、グラシアーノという夫婦も出ているが、彼らはどちらかといえば、喜劇をもりたてる役柄だ。切ない恋ごころを語るのは、ほとんど自分たちふたりだった。
自宅で暇をもてあますとき、くちびるからぽろりとポーシャのことばが漏れる。いや、捨松にはもはや、それがほんとうにポーシャのものかどうかもよくわからなかった。
──あなたの前に、見つめられて、今立ちつくしている、この私。お目に映っているとおり、ただそれだけの、一人の女。私自身のためだけならば、これ以上の私でありたいなどと、大それた望みを抱きはしない。
劇では演じない幕の、けれど、劇のあいまのポーシャも、口には出さずとも胸に抱き続ける気持ち。それがどんなものか、捨松にもわかっている。
いまの捨松にとって、『ヴェニスの商人』という戯曲はもはや、啓蒙やキリスト教の道徳を伝えるためのものではなく、ただ、若いふたりの恋物語でしかなかった。
瓜生家の結婚披露宴は、繁子の実兄、益田孝の屋敷で執り行われた。
英語劇の首尾は上々。列席者からは絶賛を浴び、捨松は上機嫌で舞台を下りた。
舞台のうえでも緊張はあったが、あくまでも心地よい程度であって、台詞を忘れるほどのものではなかった。
だが、その快感も、長くは続かなかった。
捨松は目立ちすぎたのだ。背の高いことは自覚していたし、英語を話す女性がめずらしいこともわかっていた。それだけならば、今日の主役の繁子とて、条件は変わらない。それなのに、客は捨松を取り囲み、離さなかった。神田や梅子はと見れば、彼らは彼らで別の客に捕まっており、助けてくれそうにはない。捨松は酔いを覚ますのだと、適当な言い訳を連ねて、人目を避けるようにバルコニーへと滑りでた。
ぴたりとガラス戸をたてると、いささかめまいがした。捨松はまだ、衣装の白いドレスのままだった。汚さぬようにと裾を気にして、前へ進みでてみて、はじめて、先客がいたことを知った。
恰幅のよい紳士だ。肩幅も広くがっしりとしていて、立派な体格だ。陸軍の正装がよく似合う後ろ姿だった。彼のほうも、衣擦れの音で捨松に気づいたらしい。ふりかえったその顔を見て、どちらともなく、声を漏らしていた。
先日、瓜生家からの帰りに出会ったあの三姉妹の父親だった。
「いつぞやの」
薩摩弁ではなく仏語で切り出したのは、紳士のほうが先だった。
「見事な劇でしたな」
「恐れ入ります」
膝を折って礼を見せると、紳士はまぶしそうにこちらを見つめた。
「なぜシェークスピア劇を選ばれましたか」
「……欧米文化の啓蒙と、道徳教育のためですわ。もちろん、華やかな英語劇で瓜生様をお祝いしたい気持ちがいちばんではありますけれど」
後半はともかく、前半の理由を口にするとき、捨松は少し、うしろめたく思った。そのような高尚なこころは、とうの昔に胸から過ぎ去っていた。
「さすが、留学してきたかたは違う」
紳士は感心しきりのようすでうなった。それがまた、いたたまれない。
「今日、いっしょに劇をされたかたがたも、噂によると、留学経験者ばかりとか」
「ええ、そうです。とても博識なかたばかりで、いつも学ばせていただいております」
紳士は深く首をうなずかせるも、表情は晴れやかとは言いがたかった。
「……ご気分が優れませんの?」
率直に問いかけると、紳士はごまかすように呵々と笑い、口ひげをなでた。
「すぐに顔に出るたちで申し訳ない。いや、自分も国費で欧州をめぐりましたが、どうしても帰朝後は立場の同じ者のほうが話が通じやすくなるものだなと考えていたのです。留学した者同士にしかわからぬことは多いです。だが、だからといって、仲間うちで群れて遊んでいては、なんのための留学かと、陰口も叩かれましょう」
顔つきは柔和だが、ことばは辛辣だった。紳士の発言に捨松は血の気が引く思いがしたが、ここで黙っていてはいけないと感じた。
「私たちの会合や演劇を、お遊びだとおっしゃるのですか」
思いのほか、きつい詰問口調になったが、紳士はおっとりと笑うばかりだった。
「ひとは、立場の似通った者の話がいちばん耳に心地よいものなのです。あなたは留学し、学位をとり、立派に学を修めています。けれど、いまの日本で、二十歳を超えて独り身の女性は、男と同じ土俵にはあがれません。『女だてらに立派な学者様』だと認められることすらないでしょう。声高に正義を並べ立てたところで、所詮、半端者の言うことであると、ろくろく聞き届けてももらえません」
仏語のやさしくていねいな口調が、余計に胸に刺さる。捨松は今度こそ、ことばを失った。
「あなたは、たったいま演じてきたばかりではありませんか。ポーシャはなぜ男の法学博士に化けたのですか。ネリッサはなぜ男の書記になりすましたのですか。諸外国ですら、地位のない女性は軽んじられるからです」
捨松がよほどひどい顔をしていたのだろう。紳士はさすがに言い過ぎたと感じたらしく、ふたたび、顔を曇らせた。捨松は顔を覆いたいのを我慢しながら、紳士をじっと見据えた。
「私は、アメリカで学んだことを広く伝えたいのですわ。だから、まずは英語や文化を学んでもらわなければと思ったのです」
懸命にしぼりだしたのは、アメリカに留学していたころの素直な気持ちだった。それを聞いて、紳士は微笑んだ。
「──自分とことばの違う人間をこころから受け入れるほどには、日本人の精神は成熟していません。耳を傾けてもらうには、相手とことばを同じくして、相手の立場に近づいて語りかけるほかありません」
紳士はそれだけ言うと、名残惜しげにしながらも、バルコニーを出て、宴会場へと戻っていった。残された捨松はだれに気兼ねすることなく顔を覆った。広間から見えない陰へ隠れて、うつむいた。
数日後、文部省から仕事の話が舞いこんだ。東京女子師範学校の教師が辞めるので、あとを引き受けないかと言われ、捨松は喜んだ。対象科目の生物と生理学は、捨松の得意とするところだ。給料もよかった。もし、引き受けたなら、国いちばんの高給取りの女性になっただろう。
──捨松は、引き受けなかった。
正確には、引き受けられなかった。二週間以内に着任せよと言われたためだ。
日本語の会話こそできるようになってきていたが、読み書きはとうてい追いついていなかった。師範学校で教科書を読みあげ、板書をし、生徒たちの手書きの文字を読むなど、不可能に近かったのだ。
紳士に指摘されたとおりだった。知識があり、意欲があっても、それを発揮するためには障害がある。そのことに、捨松はあらためて気がついていた。