五
紳士は名乗らなかった。捨松も同様にした。
アメリカで学んだこと、感じたこと、日本に戻って考えること、文部省への不満、当面の仕事がないこと。思いつくまま、問われるままに話す捨松のことばに、紳士は時折あいづちを打ちながら、真剣に聞き入った。
「仕事がないのは、お困りでしょうな」
「ええ。いまは、資産家の令嬢相手に英語の個人教師の口を探そうと考えておりますの」
「ほう……」
紳士はこれを聞いて、少々考えるそぶりを見せた。こころあたりでもあるのだろうか。身を乗り出しかけた捨松に、紳士は打ち消すようなしぐさをする。
「いや、うちの娘たちに教えていただこうかと考えたのですが、さすがに幼すぎるので」
「おいくつですの?」
「六つと三つと乳飲み子でして」
紳士は照れたように頭をかいた。ちらりとでも、捨松を娘たちの教師にと考えたことを恥じているようだった。
「まあ! さぞやかわいらしいお子さまがたでしょうね」
口元を手で隠して笑う捨松に、紳士は照れ笑い、そして、最後には素直にうなずいた。
「かわいさゆえに、甘やかさずにきちんと教育を施してやらねばと、から回るばかりです。──夏に産褥で妻を亡くしまして、いまは姉が母代わりをつとめてくれていますが、姉も、おのれの受けてこなかった学問までは、さすがに教えられぬものですから」
「奥様を。それは、お気の毒に」
口にしたところで、馬車が止まった。
「着きもしたな」
秘書が言う。首を伸ばして外をのぞけば、確かに山川家の壁が見える。捨松は名残惜しいような気になりながら、礼を述べ、馬車を降りた。女中と並んで、会釈をすると、紳士は応えて軽く手をあげる。馬車が見えなくなるまで、道ばたにたたずんでいたが、さあ、歩こうというときだ。女中が震えていることを知った。
理由を問いただした捨松に、女中は真っ白になった面を上げ、怒りに燃えた目で馬車の去った方向をにらんだ。
「どうして、あのように親しくなさるのですか。薩摩者ではないですか!」
「薩摩……?」
「捨松嬢様はずっと英語で話されていて、私にはお話の中身もわからないし、もう、気が気ではなかったのですよ」
語気強く言いつのられて、捨松は弱った。叱られたことはわかっても、やはり、同郷のはずの女中の方言は聞きとれない。ただ、薩摩ということばは、よく耳になじんでいた。
それは、仇敵を示す語だ。
いましがた別れたばかりの紳士が、会津の城を落とした薩摩の出身だった。会津育ちの女中が言うからには、ほんとうなのだろう。だが、なぜだろう、あまりしっくりと来ない。
やさしく洗練された紳士だった。美丈夫ではなかったが、立派な風格があった。彼はきっと亡き妻をいまだに愛しており、忘れ形見の娘たちをいつくしむ。彼は、軍人にも見えた。もし、彼が得た地位や財産が、鶴ヶ城を攻め落とした功績によるものだとしたら?
──だとしたら、なんだと言うのだろう。
捨松は、そう考えた自分に驚いた。即座に、これは口にしてはならぬ考えだと悟った。決して、この女中にも、母にも兄にも漏らしてはならぬことだと思った。
そっと腕を上げ、片手で口を覆う。それを、女中は薩摩者と話してしまったことへの動揺と見たらしい。表情を和らげ、二言三言、慰めを投げかけてくる。しかしながら、捨松のこころが受けたのは、もっと静かで、とても深いところを揺さぶるような衝撃だった。