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『アリス、ここでは総てがアメリカとは違うのです。……文部省は、いまだに私が帰国したことさえ公けに発表していません。目下のところ、文部省から仕事の連絡がくるのを待っているところです。……

 一八八二年十二月十一日』


 学校創設の夢を抱いて帰国した捨松が、現実はそう甘くはないのだと理解するのには、一週間もあればじゅうぶんだった。


 帰朝報告にむかった文部省の対応ひとつ見ても、この国が捨松や梅子のような女性を求めていないことは明らかだ。ふたりには、エリートとしての道はおろか、大学講師のポストすら、用意されてはいなかったのである。


 捨松は暇をもてあまし、自然、足がむくのは愚痴を言いあえる友人・繁子の家だった。


「彼らはなんと怠惰なことでしょう! もう一週間も経ったのに、私たちが日本に戻ったことすら、まだ公表できていないだなんて」

「ほんとうよね。まさか、仕事の斡旋すら受けられないとは思ってもみなかったわ」


 捨松のぼやきに、やはり同じように家から逃げてきた梅子が応え、大げさな身振りで肩をすくめる。そこへ、繁子がころころと笑いながら、盆を携えてきた。


「ほら、ふたりとも! 英語もいいけど、積極的に日本語を使わないと」


 梅子はくちびるをとがらせる。


「使えるようになってきたよ。英語を使えるのがここだけなんだもの。勘弁して」

「あら、はじめは横浜へ迎えにきてくだすったお父様にもご挨拶できなかったのに、上達なさったことね」


 繁子に笑われて、梅子は真っ赤になった。だが、笑われたまま黙っている彼女ではない。


「シゲはいいよね、ピアノを教えるのに日本語はいらないもの。ご主人は留学生だし。さぞ、楽にお過ごしでしょうとも!」


 捨松は手で梅子を制したが、繁子は泰然としていた。新婚の彼女には、梅子のひとことなど、つゆほども気にならないものらしい。のろけのきっかけを与えるだけだった。


 夫との生活についてひとしきり語る繁子に、捨松はあきれ、次第にうわのそらになった。

 実はこの一週間ですでに一件、捨松にも縁談があった。相手は名も無い人物だったので、捨松に否やを問うまでもなく、兄が断ったが、母は少し、それを気にしている風だった。


『おまえももう二十四。次の縁談など来ないやもしれぬのに』


 十代も半ばのうちに結婚するのがあたりまえの世間で、たとえ使命を帯びて留学をしていたとはいえ、二十代半ばの未婚の娘を持つというのは、気がかりなものなのだろう。

 もうすぐ、年が明けてしまう。みな、またひとつ年をとるのだ。


「──私、帰るわ。英語の家庭教師の口を探すことにしたのよ。準備をしなければ」

「まあ、もう? あと少しすれば、みなさんもいらっしゃるのに」


 引き留める繁子に礼を言い、捨松は瓜生家を出た。


 繁子の家は居心地がいい。瓜生氏は海軍の仕事で留守がちだし、集まる面々も話しやすい者ばかりだ。夫婦ふたりともがアメリカ帰りの瓜生家には、捨松たちのほかにも始終、留学生が入り浸る。梅子も捨松自身も、半分は彼らとの語らいを楽しみにこの家に通っている節があった。


 ぬるま湯につかるように、心地よさに身を沈めて、何もかも忘れ去ってしまえたらいいのに。思い合う相手と結婚するのでなければ、結婚にはメリットが不可欠だ。留学帰りの行き遅れを娶るメリットは何だ。……ただの、箔付けだ。


 実家から付き添ってきた女中を伴って、人力車を拾おうと、道に出たときだ。まさに道ばたで人力車が一台止まっているのが見えた。捨松は早足にそちらへ近づいていき、あと数歩まで近づいて、はたと足を止めた。


 人力車の車夫と、背の高い客とがもめている。肩の広いがっしりとしたからだつきに、外套が映える。頭髪は、淡い色にきらめいていた。かたわらでは婦人がおろおろしている。その瞳は、うつくしい緑をしている。


 ──外国人だわ。


 ことばを聞かずとも、ひとめでわかる風体だった。車夫が怒鳴る。


「俺ぁ、外人のことばはしゃべれねえよ! 他へあたってくれって言ってるだろうがよ」


 客側も、外国語を話すわけではない。片言ながら、懸命に行き先を伝えようとしている。


「捨松嬢様……」


 女中が怯えた顔で、別の車を探そうと言う。だが、捨松には、彼らを放っていくことなどできなかった。女中を置いて、つかつかと近寄っていく。ドレスの裾を蹴さばいて歩み寄る捨松に、彼らはすぐに気がついた。


「何か、お手伝いできますかしら?」


 くちびるから紡がれたことばは、英語だった。通じなければ、こころもとないが仏語も試そう。考えていたが、さいわいにして、ふたりは英語話者のようだった。


 紳士と婦人は見るからにほっとした顔になった。行き先を捨松に告げ、料金を知りたいのだと訴える。捨松は微笑むと、彼らのかわりに車夫に料金を問うた。


「運賃を前払いにしたらいかが? ことばが通じるうちに支払いが済めば、乗車を断る理由はございませんでしょう?」


 両者のあいだをとりなして、ふたりを見送る。笑顔で手を振られ、こちらからも手を振りかえす。

 ほっとしていると、だれかが近づいてくる気配があった。女中が寄ってきたのだろう。思ってふりかえり、捨松は声を失った。


「いやあ、お見事! 美しい(みごて)発音でおじゃる。どこで習われ(なる)たのですか」

 そこにいたのは、大柄な紳士だった。四十路は過ぎているだろう。厳つい顔つきに太い眉。武道でもたしなむのか、眼光にいたるまで、柔らかさはどこにもない。ただ、身にまとうのが上等な洋服であることだけはわかった。


 女中がひるむ。捨松は目元を笑ませて女中をなだめると、紳士にむきなおった。訛りのせいで捨松には彼がなんと言ったのかわからなかったが、大げさなまでの笑みと拍手とで、ほめられたことだけは理解する。


「……恐れ入ります」


 この返答に、紳士は、ははあ、とうなずいた。そうして、彼が口にした響きに、捨松は目を見張った。


「英語は得意でないのですが、仏語であれば、人並みに使えます」


 仏語だ。流暢で、かなりこなれている。紳士の風体には相応の知識と言えようが、軍人のようないかめしい風貌にはまったくといって似合わない響きだった。


「まぁ、ほんとうにお上手ですこと。どちらで学ばれましたの?」


 すかさず仏語に切り替えて返した捨松に、紳士はいかにもおもしろそうに、立派な腹を揺らして笑った。


「フランスへ留学させていただいたのです。あなたは? 英語も仏語も、教師を見つけるだけで難しかったことでしょう」

「私も、アメリカへ十年ばかり留学してまいりましたのよ」

「さようでしたか」


 得心がいったふうに小刻みに首を縦に振って、紳士は自分のうしろを示した。


「もしよろしければ、お送りしましょう」


 見れば、そこには二頭立ての馬車があった。秘書かおつきか、馬車のそばに控えていた男が捨松の視線に気がつき、目を伏せ、頭をたれた。


「嬢様、嬢様! 車()拾ってください(くなんしょ)

 女中がかぶりを振って、捨松の袖を引きさえする。だが、捨松は、紳士に興味があった。そして、それはむこうも同じようだった。


「ご婦人でアメリカ留学とはめずらしいですね。道々、話をうかがえませんか。いまのアメリカ情勢を少しなりとも知りたいのです」

「──ええ、私の話でよろしければ」


 未婚の娘にあるまじき、不用意な行為だとはわかっていた。けれども、異国へ留学した者同士、話せば何か活路が見いだせるのではないか。この閉塞した状況を打開する方法が、何かしらあるのではないかと思った。


 捨松はさしだされた手をとり、馬車に乗りこんだ。女中は覚悟を決めたようすで、あとに続く。車内は広く、四人が乗ってもまだ余裕がある。膝をつき合わせて腰掛け、話しはじめると同時に、車は走りだした。

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