三
『親愛なるアリス
まず、あなたが日本に来る時用意しなければならない物を書いてみます。もし、この季節に太平洋を渡ることになった場合には、あなたの持っている暖かい洋服を全部持ってくること。厚手のフランネルの肌着、外套、カーディガン、ジャケットは船の上ではぜひとも必要です。……』
咲と梅子の乗る船が横浜港についたのは、明治十五年十一月二十一日のことだった。
「ねえ、スティマツ。迎えはあるかしら」
デッキから不安そうに水面を見下ろして、梅子がつぶやく。咲はその背をなぜて、慰めるように肩を抱いた。
「無くても平気よ。横浜なら英語が通じるはずだし、私も少しは日本語が話せるわ」
十一年の歳月が自分たちの頭のなかから日本語の音韻を消し去っていったことに、咲はいまさらながらに気がついていた。入港したとたんに、そこここで日本語らしきやりとりが聞かれるものの、その半分も聞きとれればよいほうだ。読み書きにいたっては、ほぼできないに等しかった。
十二歳で旅立った咲ですら、このようすだ。当時八つだった梅子などは、故郷にたどりついたにも関わらず、あたかも異国を訪れたようなありさまだった。怯えきった梅子を励まし、咲はくちびるをかみ、考えをめぐらせる。
家族は無理でも、せめてだれか政府の役人が迎えにきてはいないものだろうか。
迎えの小舟が次々とやってきては、船の乗客や積み荷を載せていく。だが、咲たちを呼ぶ声はいっこうに聞かれない。
──どうしよう。
自分まで心配になってきたときだった。梅子が「あっ」と短く声をあげた。
指をさす。小舟がゆったりと近づいてきている。舟上には、紳士がふたりと、女性が数名。なかのひとりがこちらを見つけて、大きく手を振っていた。その手の白いハンカチがなびくのをみているうちに、小舟は乗り手の顔の見えるまでに近づいてきた。
「シゲ! シゲだよ! お父様も!」
梅子がはしゃいで、咲の胸に抱きつく。咲はぼうぜんとして、舟がすっかりとたどりついても、動けずにいた。
「捨松!」
見覚えのあるふたりの女性に口々に呼ばれて、咲は口元を両手で覆った。我が名だった。十一年前、母に与えられた名の響きに、咲は泣きたい心地になった。
捨てたつもりでアメリカへ留学させるが、立派に官費留学生の役目を果たして戻る日を待つ。その意味をこめて、母は幼い咲の名を捨松と変えて送りだした。異国の地では、スティマツとばかり呼ばれていた。そのせいで、あまり身にはなじまなかったが、ここにきて、日本の響きで呼ばれると、自分の名だということがはっきりと感じられた。
「捨松! ねえさんよ、わかるっ?」
帰ってきたのだ。
遅れて湧いてきた実感に、捨松はようやく腕をあげ、姉たちに手を振って応えた。涙は一筋だけこぼれて、海へ消えていく。
自分は、懐かしい故郷、日本へ帰りついた。ここには、輝かしい未来が待っている。
母が名に込めた願いどおり、無事に役目を果たしてきた誇らしさで、笑みがこぼれた。ふりむくと、梅子も同様のようだった。
ふたりで意気揚々と船を下り、小舟へ乗り移る。繁子や親類たちと語らいながらの家路はとても賑やかで楽しいものとなった。