二
『親愛なるアリスへ
お元気ですか。実はとてもすばらしい報告があります。今日のお昼前に、とつぜん学長室に呼びだされたのですが、いったいどのような用件だったと思いますか?』
「──スティマツ!」
廊下から響いてきた友人の声に、咲はペンを持つ手をとめた。足音はノックと前後して、部屋へと飛びこんできた。
「スティマツ! 卒業生代表ですって? やったじゃない! さすがだわっ」
ふりかえると、頬を紅潮させた同級生が満面の笑みで腕を広げていた。咲は椅子から立ち、同じように胸を開き、彼女を迎えた。
「ありがとう。いま、繁とアリスに報告の手紙を書いていたところなのよ」
「まあ、シゲに?」
友人はベッド脇の丸椅子を持ってくると、咲の隣に腰をおろす。
「シゲはさぞかししあわせでしょうね。婚約したのでしょう、例の彼と」
ちらりと手紙に目を走らせる友人に苦笑して、咲は書きさしの手紙のうえに白紙を載せ、彼女にむきなおった。
「ええ、瓜生氏ね。よい青年だわ。日本に戻ったら、きっと繁の結婚式に招かれるわね」
「すてき。日本式の結婚式はどんなものなの? いつかあなたが見せてくれたようなキモノを着るのよね?」
無邪気に問われて、咲は口ごもった。咲の知識は日本を旅立った十二の年で止まっている。幼いころの記憶を呼び覚ますも、うまくはいかない。
「そう……だと思うわ。でも、色は違う。雪のように真っ白な着物をまとうの。あれは、なんて言う衣装だったかしら」
首をかしげる。思いだせない。日本語なんて、長らくまともに使っていない。過去には同じように留学に来ていた兄と週に一度、日本語のレッスンをしていたこともあったが、アメリカに存在しないものの名など、すっかりと忘却のかなただ。
「めずらしいこと。優秀なスティマツでも、忘れてしまうものなのねえ。でも、だいじょうぶ。日本に戻れば、思いだすわよ」
「そうかしら。そうだといいのだけれど」
「ヴァッサーカレッジを卒業したら、すぐにも日本に戻ってしまうのでしょう?」
咲はうなずいた。
「官費留学生ですもの。どうしても卒業したかったものだから、去年、一年だけという約束で留学期間を延ばしていただいたのよ。これ以上は延びないわ。ただ、卒業式は六月十四日なのに、船が出るのは十月末なのですって。出発まで看護学校へ通うつもりなの」
留学生で、同じヴァッサーに通っていた繁子は、去年、一足先に卒業して、日本に帰国した。こちらで知り合った瓜生外吉とは、日本に戻ってすぐ婚約のはこびとなったらしい。快活な繁子は寮のみなによく好かれた。咲も繁子とはたびたびこうして手紙をやりとりしていた。
繁子はヴァッサーでも芸術学部に在籍していた。音楽専攻で、ことにピアノが得意だ。その知識をどのように日本の地で役立てているのか、ほんとうは何よりそれが知りたかったが、繁子の書いてよこすのはいつも、結婚にまつわるあれこればかりだった。
──そんなことのために一生懸命に勉強したんじゃないわ。
咲は反発を覚え、そのたびにそんな自分を恥じた。まるで、繁子のことを馬鹿にしているようだと思ったからだ。
カレッジや看護婦養成学校で学んだことを、すぐさま、日本で役立てるには、どうしたらよいだろう。この知識が役立つ場は、たぶん、まだ日本にはない。多くのひとびとは、学士である咲の言うことを理解できない。彼らには、アメリカの大学で教わるような知識の土台がないからだ。
もし、みなが咲と同じアメリカの知識をもっていれば、すぐにも国が変わる。きっと、日本もアメリカのようになれる。そうなれば、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国に侮られる国ではなくなる。
では、みながアメリカの知識を得るにはどうしたらよいのか。だれもが留学できるわけではない。それならば、日本に戻ったとき、咲のすべきことは、ひとつではないだろうか。
「私、日本に帰ったら、学校を作るわ」
「学校?」
咲のとうとつな思いつきを聞くはめになった友人は、眉を寄せ、すっとんきょうな声をあげた。
「そりゃ、スティマツは優秀よ。呼びかければ、資金は集められるかも。でも、教師はどうするの? まさか、あなたひとりきりってわけにはいかないでしょう?」
「ウメがいるわ。アリスも呼べばいい。平気よ、きっと何もかもうまくいくわ!」
咲は両頬を手で覆った。
わくわくしていた。日本に、新たな学校を作る。そこで新しいアメリカの知識を広める。だれもが咲たちの持つ知識を求めてやってくるに違いない。学校は大盛況になるだろう。
咲は官費留学生だ。国の未来を背負って立つ人材なのだから、政府の援助も受けられるかもしれない。学校の敷地や建物、創設のための資金など、些末なことには頭を悩ませる必要はないかもしれない。
「ええ、何もかもうまくいくわ」
確信を持ってうなずき、咲は遠い日本へ帰りつく日を夢見て、どこまでも明るい展望に胸をふくらませていた。




