十三
『親愛なるアリス
大山氏は私との婚約を公けにすることをとても急いでおられたので、私はこの問題を二週間じっくり考えたすえ承諾することにしました。……私達は結婚の準備にあたって、ちょっと戸惑っています。純日本式にするのか西洋式にするのかまだ決めていないからです。……
一八八三年七月二日』
捨松は婚約の後、はじめて大山の三人の娘に会った。
長女の信子は七つ。おとなしく賢そうな子で、捨松を見て、はにかんで伯母のうしろへ隠れてしまった。次女は夭折しており、四つの三女、芙蓉子は活発で反抗的だった。おしゃまなようすが愛らしく、捨松はこの子がなついてくれるまで辛抱強くいようと思ったし、末娘の留子はまだ二つの天使のようにかわいい盛りの赤ん坊だった。
「『ママちゃん』と呼んでくださいね」
そう言うと、とたんにそっぽを向いた芙蓉子に対して、信子はもじもじと伯母のうしろから顔をのぞかせ、小首をかしげた。
「ママちゃん?」
「はい」
にこやかにしてみせると、信子はこちらへ出てきて、伯母や父である大山に許可を取るようにそれぞれの顔を見て、それから、捨松のところへ近づいてきた。
「ママちゃんの指輪、とてもすてきです」
捨松の指には、大山が贈ったうつくしい婚約指輪があった。信子にほめられた捨松は、手をさしのべて、間近で指輪を見せてやりながら、つとめてやさしい声音で言った。
「お父様からいただいた指輪です。西洋では、結婚を約束するときに、男性から女性へと指輪を贈る習慣があるのです」
信子は目を輝かせた。
「信子も、大きくなったら指輪をいただけますか?」
「そうね、きっといいかたが見つかって、指輪をくださるに違いありませんよ」
捨松のことばに、伯母が大山を横目で見ながら笑う。
「お父さんは狭量だから、苦労しないといいけれど」
「何が狭量でしょうか。娘のために妥協しないだけです」
つんとすまして姉に言いかえすようすにこっそりと笑って、捨松はかがめていた腰を伸ばした。
「ママちゃんはお父様とお話がありますから、あとでまたおしゃべりいたしましょう」
大山に目配せして、ともにその場を後にする。大山は、子どもたちには声が聞こえぬところまで来てから、捨松にそっと尋ねた。
「どうでしょう、仲良くやれそうですか」
「ええ、よい子たちです。まだ幼いこともありますし、私が後妻だからどうのと、余計な考えはありません。時が経てば、自然に仲良くしてくれるでしょう」
「姉は仏語も英語も話しません。ことばがわかるでしょうか」
伯母と捨松とのあいだを心配する大山に、捨松は安心させるように笑みをみせた。
「ことばを獲得するのには時間がかかるものですわ。けれど、努力して得られぬものはないと信じておりますの」
「ああ。……そうですね、確かにそのとおりです」
大山は、らしくもなくそわそわとうごめかせていた手をとめ、立ち止まり、廊下の途中で捨松へ頭をさげてみせた。
「娘たちをよろしく頼みます」
「こちらこそ、お願いする立場にございますのに。必ずや、お嬢様がたのよき母、よき手本となるようにいたしましょう」
お願い、と口にしてみて、はたと、捨松は思いいたることがあった。
「大山様、私、結婚する前にひとつだけ、お願いがありますのよ」
「なんでしょう。何か、嫁入り道具に不足がありましたか」
「いいえ、そうではなくて」
言いさして、捨松は部屋のドアの前で足をとめた。ふりかえり、目をあわせる。
「──巌とお呼びしても?」
これを聞いて、大山はびっくりしたように黙り、一瞬ののち破顔した。
「そんなことか。好きに呼びなさい。あなたはわたしの妻になるのですから」
返答に満足した捨松の脇から、腕を伸ばしてドアを開けてやり、大山は小さく耳打つ。
「わたしからも、ひとつだけお願いをしてよろしいですか」
何かと顔を仰ぎ見た捨松に、大山は不慣れな英語で話しかける。
「指輪をなくさないでください。『もしこれを手放したり、失くしたり、誰かにやったりなどなさったら、それはまさしく、あなたの愛の滅びた印』」
『ヴェニスの商人』の一節だ。だが、これは──
「『もし、この指環がこの指から、かりそめにも離れる時があったとすれば、それはすなわち、わが命がこの身から離れる時。どうか、はばかることなく、こう断言していただきたい、バサーニオめは、もう死んだと』」
大山に応じて英語劇の台詞を言い終えたとたんに、捨松は声高く笑った。
「どうして、あなたがポーシャ役をなさるの、巌!」
大山の返答は、捨松を迎え入れ、閉ざされたドアのむこうでなされたので、余人には声ひとつとして聞こえなかった。