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十二

 数日後、大山家の晩餐会に呼ばれた際にも、彼とふたりきりで話をする機会があった。


「先日、お伝えしたとおり、私にはかなり打算的な考えがありますのよ」

「それを聞いて手控えるようなら、今夜、あなたをこの場にお招きはしていません。それに、打算というなら、こちらのほうでしょう。三人の娘を世話してくれる後妻を探しているのですから」


 お互い様というわけだ。

 捨松はくすくすと笑い、それから場をぐるりと見渡した。


「ご婦人が少ないのではありませんこと?」

「奥様も連れていらっしゃるようにと、お声はかけたのですが、なかなか。ご夫婦おふたりでいらっしゃるかたは少数派です」


 捨松は不満にゆがんだ口元を、扇でそっと覆いかくした。


「三歩下がって控えているのが美徳だなんて。何を考えているのかわからない女性が欲しいなら、お人形でも抱えていらっしゃればいいのですわ。ほんとうに嘆かわしく思います」


 捨松の言いぶんを耳にして、大山はのどの奥で楽しげに笑う。


「|ローマではローマ人のように振る舞え(郷に入つては郷に従え)とも申すもの。外国人とふれあう機会が増え、その折の態度が文化として定着すれば、自然、自己主張をできる女性が生まれるでしょう。気長に待とうではありませんか」


 大山のことばに、捨松が黙って肩をすくめ、大げさな反応を返すと、見とがめたひとから、驚いたような声があがった。大山はちらりとそちらへ目をむけ、微笑んで会釈する。


「出る杭は打たれます。こちらはどちらかといえば打たれる側です。ひとりならば居づらくても、ふたりならばやり過ごせるとは思いませんか」


 言われて、捨松も見よう見まねで、大山の視線の先にいる招待客へ、笑みをみせる。


「ほら、おもしろくなってきたでしょう」


 聞こえていたのかと、むこうが焦っているようすを少々いじわるくも鼻で笑って、大山はわざと、大きく手を広げて彼らのもとへと歩み寄っていく。挨拶でもする気らしい。


「ご紹介しましょう。あちらのかたは……」


 手招かれて、捨松もそちらへ近づきながら、未来の夫としてではなく、戦友として、大山の隣に立つのは、さぞや興味深いだろうと、思わずにはいられなかった。




 こうした交際が三か月目に入った六月上旬。捨松は大山から、ふたたび婚約を打診され、二週間の猶予を求めた。


 二週間、会わずにいようと一方的に決め、捨松は日本語のレッスンや習字のほかは、呼ばれたパーティにだけ出席して過ごした。


 大山に会わない日々は、張り合いがなく、色あせてさえ見えた。

 大山は、捨松にとってすでに必要な人間だった。彼なくして、自分の人間的成長はありえない。そう感じた。けれど、では、大山のそばにいるには、友人ではだめなのか。他の、いまは話もないだれかと結婚して、大山とは友人であり続けるというのは?


『あなたのおっしゃることを実現するには、条件に当てはまる人物が非常に少ないのでは?』


 耳元で、声は捨松を諭し、考えを否定する。ああ、そうだ。これ以上の縁談など、来はしまい。大山がハイカラ好きの洋好みでなければ、捨松にだって、声はかからなかったろう。


 彼自身も言っていたではないか、娘たちに西洋文化の教育や英語教育を施したいと。娘のために後妻を探しているのだと。そのどちらの条件も満たす合理的な結論が、捨松を娶ることだっただけだ。大山に、捨松だけを求める理由はない。たとえば、梅子がもう少し大山に見合う年齢であったなら、彼女にだって声がかかっていたかもしれないのだ。


 そう考えると、なぜだろう、胸が苦しくなった。


 捨松は立ち上がり、部屋をうろうろと歩きまわった。それから、じっと部屋のなかへいるのが息苦しくなって、ついには外へ歩きに出ることにした。


「散歩に出てまいります」


 母に声をかけて、ひとりで出ようとすると、あわてて引き留められた。女中をつけられて、自由を奪われた気になりながら、外へ出る。

 そういえば、以前の女中とは違う娘だった。


「あなた、いつから働いているの?」

「へえ。三月ほど前からでごぜえます」

 なんでも、前の女中は薩摩が嫌いだとかで辞めたらしくッて。


 女中同士の噂話を聞かされて、捨松は閉口したが、同時に納得もした。大山を選べば、こうやって、自分の周囲からひとが減る可能性もあるわけである。


 そぞろ歩いていると、木立のさやめくようすに目がとまった。結婚すれば、こうして、気ままに外に散歩に行くこともできなくなる。ニューヘイヴンで駆けまわっていたころが、懐かしくてしかたなかった。


 腹を痛めたわけでもない子どもを三人育てるのは、容易なことではない。いちばん年かさの娘は七つ。鶴ヶ城に籠もったころの捨松よりも幼い。それでも、いろいろと大人の事情がわかってくるころだ。一筋縄ではいくまい。


 さまざまに考えながら、ゆっくりと足を進めていたときだった。人力車の車輪の音がした。後方からだ。捨松は女中とともに道の端へ寄ったが、車は果たして、捨松のすぐ横で止まった。

 何事かと立ち止まって見上げていると、車から顔を出したのは、大山だった。


「お嬢さん、どちらへ?」


 大山の仏語を聞いたとたん、まるでからだが息をふきかえしたような感覚があった。


「目的などございませんわ。ただの散歩ですもの」


 返答すると、大山はひらりと車を降りて、捨松の隣に立った。


「ごいっしょさせてください。お女中は、先に人力車でお宅へ帰してやりましょう」


 えっ、と、女中と目を見交わす。捨松が何事か言う前に、女中はあれよあれよと言う間に車に乗せられ、連れて行かれてしまっていた。

 あとには、大山と捨松だけが残っていた。


「なんて強引なことをなさいますの」


 抗議すると、大山は捨松にむきなおり、さっと両手を取った。


「会いたかった。どうしてもふたりきりで話がしたくて、飛んできました」


 こんなしぐさをしても、大山は見栄えがしない。腹は出ているし、頭髪は白髪まじりで、下手をすれば、親ほども年が離れている。それでも、大山の手の熱はじわりと伝わり、捨松の動きを封じていく。


「あなたが結婚をためらうのは、官費留学生としての御役目にしばられているからではありませんか。御役目に沿おうと厳しく自分を律することが、結果的にあなたのこころの声に反しているからではないのですか」

「そんなことは、」


 否定しようとした捨松のことばに被せて、大山はさらに問いかけた。


「そうでしょうか。あなたは、まるでほんとうにポーシャのようだ」

「『ヴェニスの商人』の、ですか」


 とつぜん、何を言い出すのだろう。戸惑う捨松に、大山は熱っぽく主張した。


「あなたは、父親の遺言にしばられて自由な結婚ができず、愛する者以外が正しい箱を開けてしまわないか、愛するバサーニオが正しい箱を開けられるかと気をもむポーシャのようだ」


 捨松が何も言えずにいるのを見て、大山は悲壮な顔になった。


「あなたは御役目にふりまわされているのではないのかと、わたしは、不安でたまらないのです。たとえば、神田乃武くんは正しい箱を開けられなかった、それだけのことで切り捨てられてしまったのではありませんか。あなたは彼を深く愛していたのに、彼は御役目をまっとうしたいあなたの考えにはそぐわなかった。あなたは、正しい箱を開けられなかった彼とは結婚できなかった。違いますか」


 違わない。何も、違わない。


 大山はまっすぐに捨松の目をとらえた。彼がこうした自分の思いを訴えかけるのは、あまり記憶にないことだった。大山は、切々と言いつのった。


「わたしが正しい箱を開けたとして、それだけを理由に結婚を決めるのだとおっしゃるのなら、お断りしようと思ってまいりました」

「──え」


 ぽっかりと、胸に穴をうがたれた心地だった。捨松はあまりの痛みに胸を押さえた。


 ──正しい箱を開けた、それだけが理由?


 首を振った。強く、強く横にふり、髪が乱れるほど、否定した。気づけば、頬を涙が伝っていた。

 そのまま、何も言えずに大山を見つめると、彼はうろたえ、両手で隠しを探り、何も見つけられずに、捨松の頬へと手をさしのべた。


「……ひとめぼれだと言ったら、笑われると思ったのです」


 頬を、あたたかで無骨な指がぬぐっていく。それがとても心地よくて、捨松は目を閉じ、大山の指の感触に寄り添う。


 大山はとつとつと胸のうちを告白した。


「はじめから、あなたを好ましいと思っていました。娘たちのことは事実ではありますが、求婚の理由にはなりません。わたしは、あなたと共に生きたいのです」


 捨松は嗚咽を抑え、微笑みをつくる。泣き笑いで、こくりとうなずいた。


「私も、大山様の隣にいられたらと、願っています」


 はっきりと告げると、大山は真っ赤になって、しばらくのあいだ、ずっと目をあわせてはくれなかった。

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