十一
山川家側が乗り気のうちにと、急いだためだろう。デートの行き先は、西郷従道の夏の別荘だった。別荘で開かれる内々の昼食会に招かれて、同じく出席する大山と人力車で乗り合わせてむかう──デートの筋書きはおおよそこのようなものだった。
お互いに名を知ったうえで会うのは、今日がはじめてだ。あらためて挨拶をするのは、どこか気恥ずかしい。捨松は悩みながら、仏語を口にした。
「はじめましてと、ご挨拶すべきかしら。どうして、はじめてお目にかかったときに、自己紹介をしておかなかったのでしょう」
「こちらはあなたの名がすぐに見当がついたので、敢えておうかがいしなかったのです」
大山は言い、捨松の手を取って、人力車の席に座らせた。そうして、自分も乗りこむと、視線を前方へとむけた。
「あなたの兄君はおふたりとも、めざましいご活躍をなさっています。藩閥政治がまかりとおっているなかで、出身を問わず引き立てられるというのは、なかなかあるものではありません。とても、立派なお兄様がたです」
「恐れ入ります」
話が途絶えた。大山はまだ前を見つめたまま、穏やかに微笑んだ。
「二度目も断られると思っていました」
この告白に捨松は驚いたが、その感情は面に出さなかった。自信に満ちあふれて見える大山が、まさかそんな弱気なことを言うとは思わなかったのだ。
「西郷農商務卿がご熱心に勧めてくださるので、兄もこころを動かされたのですわ」
「──では、お兄様の命令で?」
問われて、捨松はきょとんとした。
「兄は、デートをしてから決めろなどとは申しませんわ。兄は私の意思を尊重して、私次第だと言いました」
これではことばが足りないと思って、即座に付け加える。
「軍のかたで娘が三人いると聞いて、大山様のことだと、二度目は私もわかっていました。ですから、もう一度、お会いしたくて」
大山はそっぽをむいて、顔を隠した。そのまま、車の外へむかってひとことふたこと言ったが、捨松には聞こえなかった。
「大山様?」
呼びかけると、大山はしぶしぶと言った体でこちらを見て、すぐにまた目をそらした。
「以前、瓜生氏の披露宴でひどいことを言ったので、嫌われているかと考えていました」
「大山様のおっしゃることは、耳が痛い事柄ばかりでしたわ。けれども、ひどいとは思いませんし、嫌うことだってありません。あのとき、お話しする機会を持たなければ、私は間違った結婚を選んでいたと思います」
「それは、つまり、神田乃武くんとの結婚ということですか」
単刀直入にこられて、捨松はさすがに神田の名誉のために口をつぐもうかとも考えたが、結局、内密にと断ってからうなずいた。大山は少しだけ険しい顔を見せたが、すぐにもとの柔和な表情に戻った。
「なぜ、それが間違った結婚だと?」
「私は官費留学生ですから。お国のために役立つには、まず、一人前と認められなければなりません。それには、結婚することが不可欠だと大山様に教わりました。しかしながら、相手がだれでもよいわけではありません」
この先を告げてよいものか、捨松は迷った。だが、大山との結婚をいずれ考えるのであれば、隠し立てできるものでもない。さて、どこからは話すべきか。
「留学中は女子教育を志しておりましたが、日本はまだ環境が整っておりません。他国に後れをとっているという意識が生まれなければ、世間は女子を教育する気にはならないでしょう。先に手をつけるべきは、日本という国の土台をしっかりと固めることですわ。踏みしめる地面が不安定なうちは、決して、外には目が向きません」
「それが、結婚とどう結びつくのですか」
いじわるな大山の質問に、捨松はくちびるをとがらせる。捨松自身も、いまの説明は迂遠に過ぎたとわかっている。
「土台を固めるには、旧藩同士のいがみ合いを終わらせねばなりませんし、外国と同等の文化や知識を備えねばなりません。そうして、そののち、さらに外国と交流し、日本の国際的な地位を築いていく必要があります」
「それで?」
茶々を入れるようなあいづちに、大山を軽くにらんで、捨松はようやく本題に入った。
「私は、自分の結婚が『いがみ合い』を止める一助になればうれしく思いますし、私が政府高官やその奥様がたと交流することで、文化や知識を広めることができればと考えます。また、土台が整ったのち、外国と交流する際には、自分の語学力や社交の能力がきっと国のお役にたてると信じています」
「──あなたのおっしゃることを実現するには、条件に当てはまる人物が非常に少ないのでは? いまのは、ほとんどプロポーズに聞こえましたが」
声をたてて笑いながらのひとことに、頬が熱くなる。そのとおりだ。
「それなら、婚約の儀を急ぎましょう。夏には沢子の喪が明けます。祝言はそのあとにはなりますが、」
「お待ちください、大山様」
捨松のひと声に、大山の暴走はぴたりと止まった。捨松は、敢えてささやくような声音で彼をいさめた。
「あくまで私は、希望を述べたまでですわ。大山様との結婚はまだ検討段階にあります」
「これはこれは」
やられたと言いたげなようすで大山は笑い、額をぴしゃりと打った。これで話題にひとくぎりつく。会話が乏しくなると、気詰まりだろうと不安がよぎったが、その心配も不要だった。捨松はすぐに会話の糸口を探し当てた。
「ところで、農商務卿の別荘はあとどのくらい遠いのでしょうか」
「半分は来たのでは。だいたい、二里ほど離れているとは」
大山は飛躍した話題にやすやすとついてはきたものの、とっさには仏語に直らず「リ」と発音して、おやと首をかしげた。
「約八キロメートルと言って伝わりますか」
「メートル法は知識としてしか。一キロメートルが〇.六二一マイルですから、ええと」
人力車が揺れるなかでの暗算は難しい。大山とふたり、しばらく黙りこくって、先に声をあげたのは、捨松のほうだった。
「四.九六八マイル!」
「負けた! では、西郷従道別邸までは約五マイルということで」
「ええ、そういたしましょう」
楽しく会話を転がしていくうちに、話は従兄弟の西郷隆盛、従道兄弟に及んだ。
「彼らとは父同士が兄弟で、子どものころからよく遊んでいました。隆盛というと、実はぴんと来ないのです。彼のことはずっと、吉之介兄さぁと呼んできました。兄さぁも、弥助弥助(弥助は通称)とかわいがってくださったものです。従道はひとつ下でしたが、兄さぁは十四も年上です。前妻の沢子の父も、兄さぁと同年の親友でした」
みなで楽しく過ごしていたはずが、自分の留学中にいつのまにか歯車が狂っていたのだと、大山は回顧した。
「征韓論を譲らない兄さぁを説得するために、志半ばでジュネーブから呼び戻され、鹿児島へむかいましたが、兄さぁの決心は揺らぎませんでした」
大山は、隆盛征討のための司令官のひとりとして、熊本に赴き、戦いのなかで、兄と慕った隆盛に大砲をむけた。
「そんなことのために留学したのではないと思いました。もとはといえば、国力増強を目標に、大砲や他の兵器の技術革新に備えるための渡欧でしたが、それが『人を殺す技術』を磨くためのものであったと、あれほど身にしみたことはありませんでした」
大山の言うのは、西南の役だ。留学中に起きたことゆえ、捨松には詳細な知識はない。けれども、その功績により、浩は名を挙げたのだと伝え聞いている。
捨松はことばを選んだ。どう言っても、傷つけるだけかもしれない。けれども、隣にいつか立つ日が来るならば、知っておきたいと思った。
「では、会津に攻め入ったときは、何もお感じにならなかったのですね」
問いかけに、大山は一度、口を閉ざして考えにふけった。
景色はゆったりと流れていく。時間は刻々と過ぎる。従道別邸への約五マイルはもう残りわずかだ。昼食前に聞けぬなら、帰り道でも構わない。そう、切り出そうとしたときだった。大山はひたと捨松を見て、ことばを紡ぎだした。
「いま考えれば恐ろしいことですが、戊辰のときは何も思いませんでした。相手は逆賊だと、ことばの通じぬ相手だと」
「……ことばの通じぬ逆賊だから、征伐しなければならないと、お思いでしたのね?」
「はい」
大山は短く答えると、青ざめて口元を手でぬぐった。
「はじめて気がつきました。お話していませんでしたが、実は、会津若松城(鶴ヶ城のこと)を攻めたとき、薩摩軍にて砲兵隊長をつとめておりました」
「存じております」
捨松の返答に、大山の握りこぶしは、膝のうえで震えていた。捨松は迷ったが、安心させるように、そっと彼の手の甲をうえから押さえた。大山は、捨松を見る十八も年かさの男は、救いを求めるようにこちらを見つめた。乾きはじめたくちびるからこぼれたのは、慇懃な仏語ではなく、薩摩のことばだった。
「会津攻めの当日に被弾し、前線を退きました。それから落城の日まで、傷の回復につとめていて、二度と会津に戻ることはなかったのです。だから、薩軍にあっても、自分は立場が違うと、勘違いしていました」
先日と異なったのは、捨松が前よりも日本語の聞き取りに慣れていたことだった。捨松には、その日の大山のことばがなんとなくわかった。けれど、そこまでだった。完全に理解することはかなわなかった。
悔しい思いになりながら、捨松は仏語を舌に乗せた。
「構いませんわ。それが大山様の御役目でございましたのでしょう? 責めたてるつもりも、謝罪を要求するつもりもございませんの。あの日、あなたが何を思い、どこにいたのか。それを知りたかったまでですのよ」
捨松は手を離した。
「私は、あの八月二十三日、城のなかにおりました。母と姉と下女とを連れて、城に逃げ、そのまま落城までを過ごしました。砲弾の火薬を作る手伝いもいたしましたし、焼き玉押さえだっていたしました。私たちも、外にいる敵軍が同じ人間だなんて、まして同じ国の人間だなんて思ってはおりませんでした」
人力車の進む先に、豪壮な屋敷が見えてきていた。そちらへ目を遣り、うっすらと微笑みながら、捨松はつぶやくように言った。
「でも、だれもがみな、日本人だったのだわ。私は近ごろ、日本という国の現状がどういったものなのかを知るためにアメリカへ留学したような気さえするのです」
車が門を抜け、敷地へ入る。完全にとまってしまう前に、捨松は車夫にも聞こえぬ声で、大山へささやいた。
「この国を変える気があるかたになら、私はどこへでもついていく気でおりますのよ。ぜひ、それを見極めさせてくださいませ」
冗談めかして言って、捨松は車を降りるため、大山に手をさしだした。