9. ひとりで過ごす夜は
那覇に来て初めて一人で過ごすはずの夜は、意外と大変なことになったりして
次の日の朝、目覚めると由紀が朝食の準備をしていた。準備といっても昨日コンビニで買ったものを床に並べるだけである。テーブルも皿もないので本当に並べるだけである。冷蔵庫がないので牛乳は温かくなってしまい美味くない。
「やっぱり、冷蔵庫ぐらいはあった方がいいよ」
「でも、2ヶ月足らずですぐにいなくなっちゃうし買ってもすぐ捨てることになるでしょ?」
「でもそのたびにコンビニまで冷たい牛乳を買いに行くのは手間だよ」
「じゃ、考えとく。ところで由紀、今日は仕事は?」
「今日は遅出だからお昼までに行けばいいんだ。その代わり帰りが遅いから、夕飯は先に食べててね」どうやら由紀の職場は8:30~17:30の早出と12:30~20:30の遅出になっているようで、週二回の休みを挟んで交互にシフトがやってくるようだ。
「でも由紀、仕事終わってから家帰って荷物まとめてまたこっちに来てたら遅くなっちゃうよ。疲れたら家で休んでていいよ」
「でも、ケンと一緒にいたいし」
「それは僕も一緒。でも仕事があるんだからあまり無理して欲しくないよ」
「じゃあこうする。今日は家に帰って、明日、次の休日まで3日分の荷物をまとめて持ってくるから、それをここに置いて、明日からはここから通勤するよ」
「僕はいいけど、由紀は大丈夫なの?」
「ほら、お母さんも公認だし大丈夫だよ。通勤の距離はそんなに変わらないし、この家にものがないから生活は不便そうだけど、それを工夫してやっていくのもまた楽しそう」
「由紀は前向きだなぁ。でも確かにそうかも。二人でいろいろと考えながらやっていこう」
朝食を終えると家を出るまで時間が少しある。部屋の片隅で二人座り込み、話をする。
「昨日、お母さん、出て行っていいって言ってたけど、あれって本気だと思う?」由紀が言い出した。
「思うも何も、僕はお母さんのことほとんど知らないわけだから、由紀がどう感じたかじゃないかな?」
「確かにお母さん、私に任せてるところはあったけど、今まであんな突き放した言い方はされたことなかったから、ちょっとびっくりしたんだ」
「確かに東京でもどこでも連れて行ってみたいなこと言ってたよね」
「でも、私が出て行くことでお母さん一人になっちゃうから」
「お母さん、いくつなの?」
「私はお母さんが24のときの子で、6月で誕生日を過ぎたから、今45だね」
「だったらまだ若いし、出て行くからって心配することはないんじゃないかな?」
「え?」
「これまでお母さん、社会に出すまでは由紀のために多くを犠牲にしてがんばってきたと思う。だからこれからはお母さんのための時間を作ってあげたら?僕が一緒になりたいから言うんじゃなくて、お母さんもまだ若いし、趣味とか恋愛とかそういう自分のためのものに時間を割くことができた方が幸せなんじゃないかと思う」
「そういうものかな?」
「僕もお母さんじゃないから本当のところはわからない。だけどずっと由紀のためにがんばってきて、少しは休みたいという気持ちがあってもおかしくないと思うよ。由紀はお母さんの趣味とか知ってるの?」
「そう言われればわからないな。旅行の本なんかはよく読んでるけど、趣味なのかどうかわからないし。でも旅行とかは確かに行く時間なかったから、本で疑似体験してたのかもね」
「本当かどうかは直接聞いたらいいじゃない?照れくさかったらケンにそう言われたでもいいし」
「そうだね、今夜聞いてくる」
「あ。もうそろそろ時間だ、準備しなくちゃ」
仕事用のメイクをしていると、由紀の携帯が鳴る
「あれ、真奈からだ」
しばらく会話をしていたが、急に自分に替わるように言われたとのこと。
「おはよ、ヤマケンくん、今佳子とすぐ下にいるんだけど、冷蔵庫持ってきた」
「は?」
「だから冷蔵庫持ってきたんだけど、重いから運んでよ」
でも何で冷蔵庫?
「もう、鈍い人だね。佳子から冷蔵庫もない部屋に住んでるって聞いたから、お父さんの会社に余ってるのがあるから、それ持ってきたの!」
「わかった、とりあえず行くよ」
部屋から出るとエントランスの前に見覚えのある黒い軽が止まっていた。
「後ろのドアあけて冷蔵庫持って行って」真奈の言うとおり、後ろのドアを開け、中にあった小さな冷蔵庫を抱え出した。
「前ホテルの客室用で使っていたものだから、小さいけどないよりはあった方がいいでしょ」確かにその通りだ。冷凍室はなく、冷蔵室と製氷ぐらいしかできないが、それでもあるとずいぶん違う。
「5~6年使っていたものだけど、もし壊れてたらいくらでも代わりはあるから」
いくらでもってどういうことだ?
「それから、もう由紀仕事に行く時間でしょ?送るからって伝えて」
僕は冷蔵庫を抱えて持って行き、由紀に真奈が車で送っていくことを伝えた。由紀は嬉しそうである。
「じゃ、行ってらっしゃい」僕は由紀のほっぺにキスをした。
「今日は帰ってこられないけど、愛してるよ」
「僕も、愛してる」
由紀が出かけていった。
さあ、これからどうしようかと思っていたら、携帯が鳴った。真奈からだ。
「ヤマケンさんいったい何やってるの?」少し怒り気味である。
「何って、由紀送り出したから、これからどうしようって考えてた」
「バッカじゃないの?一緒に行くに決まってるでしょ!」行くってどこだ?まさか由紀の仕事場まで連れて行かれるわけではあるまい。
「はぁ?」頭の中の整理ができない。
「そのために来たのよ。まさか冷蔵庫配達して由紀送るだけって思ってないでしょ?」
ふつうそうだろ。でも冷蔵庫頂いたし、ここで冷たくあしらうわけにも行くまい。それに今日はどうせ予定がない。
「すぐ出てきて!」
「わかった行くよ」
クルマに乗る。
「まさかあのまま帰っちゃうとは思わなかったよ」相変わらず真奈は若干怒り気味である。
「だったらそう言ってくれればまた出てきたのに」
「予定なんかないくせに格好つけて予定のある振りでもしてるのかと思ったよ」真奈の言葉に自分も由紀も笑ってしまう。
「どうせ暇なんだろうから、美少女二人がエスコートしてあげるってことらしいよ」由紀が笑いながら話す。
さっきの冷蔵庫について聞くと、真奈の父親は県内でいくつかリゾートホテルやビジネスホテルを経営していて、そのうちの1つが去年末に別のリゾート会社に売却されたので、そのときまで客室で使っていた冷蔵庫が数十台会社の倉庫に山積みになっていたとのこと。処分してもよかったのだが、経営するほかのホテルの部屋で故障したときの予備として一応置いていたものを、父親に許可をもらって1台だけもらってきたとのこと。父親はどうせいらないものだから何台でも持って行けと言ってたらしいが、こっちとてそんなに頂いても困る。
「本当はベッドとかソファとかもあるんだけど」真奈は言うが、そんなもの持ち込まれたら処分が大変である。
普通、売却したら家具什器も一緒に引き継ぐんじゃないの?と聞いたら、新しい経営者は客室を減らして会議室とか宴会場を増やしたいので、余った客室の分だけは引き取らされたとのことである。
それにしてもこっちの意向も聞かずに持ってくるとは少々強引だと思ったが、佳子から部屋に何もない話を聞いたときに、もし僕に確認したら間違いなく気を遣わなくていいと断られると思ったので、強引に持って行ったということであった。気持ちはありがたいのだがもし僕が急に心変わりをして冷蔵庫を買っていたらどうなったのだろうかと思う。それでもこうやって僕のことを心配してくれるみんなには感謝の気持ちでいっぱいになる。
あっという間に由紀の職場について、由紀を降ろす。真奈から「さよならのキスはいいの?」と冷やかされるが、それは部屋で済ませている。仕事場に入っていく由紀はなんだか遠いところの人みたいだ。職場に見に行くというと恥ずかしいから来ないでと言われたので、今度由紀にもわからないようにこっそり職場に見に行こうと思う。
由紀を送ると昼食タイムである。二人の意見で今日の昼食は日本そば。こちらでそばというと間違いなく沖縄そばが出てくるので、いわゆる和風の蕎麦はわざわざ日本蕎麦と但し書きが必要である。東日本の感覚では若干出汁が薄すぎる感じがしたが、久々に日本蕎麦を食べて満足させてもらった。
昼食を終えるとドライブである。佳子が言うには、真奈がクルマを運転して由紀の好きそうなデートスポットを教えるので、今度二人のときに行けばよいとのこと。由紀は人工物よりも歴史を感じるところや自然がいっぱいのところが好きなのでということで、今回は世界遺産にも登録された中城城と勝連城、それから海中道路を渡って伊計島まで行ってみた。僕は沖縄の歴史はあまり勉強していないのでこれらの城跡が歴史的にどういうものであったのかを知らなかったのだが、日本の戦国時代とは違う別の歴史が琉球に流れている。少しばかり琉球史を学習すればもっと楽しくなるだろうにと感じた。
伊計島でかき氷など食べて、また元来た道を戻る。真奈は由紀が今日も僕の家に来ると思っていたようで、佳子も誘って一緒に夜は僕の家で飲み明かすつもりだったらしい。由紀は明日からしばらく僕の家に泊まるが、今日は荷造りで来ないというと、えー。家にも外泊すると言ってきたから泊まるところがない、仕事が終わったら呼びつけてやると言っていた。どうも何かとイライラすることが多いようだ。
夕方になり、ドライブを終えたが、真奈も佳子も僕の家に上がり込んでいる。二人ともお泊まりの準備などしていて、今日は最初から僕のところに泊まる予定だったらしい。泊まると言ってもセミダブルのマットレスが一つあるだけでソファーすらないので女子二人にそれを使われてしまうと自分は床に寝るしかない。まあキャンプに行って地面にシート1枚の上で寝るのもそう変わらないと自分を納得させる。コンビニで買ってきた弁当で夕飯を済ませ、なぜかすでに床には泡盛とチューハイの缶が並んでいる。二人は酒が入ると二人のことを根掘り葉掘り聞いた。興味津々なのはわかるが質問が直截すぎて結構えげつない。
由紀が仕事を終える時間になると真奈はすでにかなりできあがっており、携帯で電話をするも「由紀ー、早く戻ってこないとケンちゃん食べちゃうぞー」と訳のわからないことを言っている。佳子もそこまではないがいい感じに酔っている。
由紀は今日は家に来ないし、明日からしばらく泊まり込むので今日は家に帰ってと説得しているようだが、すでにクルマを運転できるものがいない。僕が電話を替わって、二人は今日、由紀がこっちに泊まる予定で泊まる準備までしてきていること、昼間デートコースの下見という名目でドライブに連れて行かれたこと、そして家に上がり込んで酒盛りを始めたことなどを順を追って説明した。由紀は仕方ないという感じで、真奈にも佳子にも手を出さなかったら泊めてあげたらいいと言っていた。残念なことに僕はそれだけの度胸も厚かましさもない。
実を言うと東京でも僕のアパートはなぜか人が溜まってくる。特に埼玉や神奈川あたりからやってきている自宅通学の同級生などが家まで帰るのが面倒くさいなどという理由でよく僕のアパートに泊まるのだ。男子だけでなく、たまに女子も泊まりに来る。ひどいのは山口君の家に泊まると言えば親公認になるぐらいである。無害と言えばそうなのだが、これって男としてどうなのかと思う。なんだか沖縄に来ても東京と同じ感じである。こっちでは男友達がいないので、そこが少し違うと言えば違う。
こうして、由紀のいない夜はひとり静かに過ごすはずが賑やかな夜になってしまった。